観る世界 Faile 7 「原作者いろいろ」

アニメーションにかかわるようになってから、それまでまったくご縁のなかった、漫画家のみなさんとお会いする機会が多くなりました。出会ったみなさんは、それぞれ個性的で、印象深い人が多かったと思いますが、その中から何人かの方の思い出を含めて書いてみようかなと思います。

先ず、永井豪さんでしょう。わたしのHPの似顔絵を描いて下さっているので、もうお馴染みだと思いますが、彼とは、「マジンガーZ」の脚本を書くことになった時からの、お付き合いになりました。もちろん彼は若い頃から一気に人気作家になってしまっていましたから、多忙で、番組の制作現場へは、そう度々現れるということはありませんでしたが 、番組に関する感想は、永井氏のデザインを運んで来る制作担当のK君から伝えられていました。あとは番組制作を担当する東映のパーティで出会うことがほとんどでした。彼と身近に接した機会といえば、何といっても「マジンガーZ」から「グレート・マジンガー」「グレンダイザー」「キュウティハニー」とお付き合いがつづくうちに、永井氏が率いる「ダイナミックプロダクション」が制作することになった人形アニメーション・・・「サンダーバード」の日本版ともいえる「Xボンバー」の脚本を書くことのなったことでしょう。彼とはその準備のために、ロスアンジェルスの映画の都と言われているハリウッド、スペースシャトルの発進発着基地にもなっている、NASAのエドワード空軍基地の取材に出かけたことでした。この時のことは、「復活の世界」で詳しくお話していますから省きますが、温厚な永井氏はいつもニコニコとしていたことが印象的でした。ました。こういった点では、一番深いかかわりを持っていた人だったかも知れません 。

その後といえば、松本零士さんでしよう。「宇宙戦艦ヤマト」の企画を作っている時に、そのキャラクターを描いてもらう人として候補に上がったのが松本さんでした。とにかくメカを描くと、マニアチックな魅力を持っていますというアドバイスがあって、プロデゥーサーの事務所へ来て頂いたのが始まりでした。この頃の松本さんは、近頃見かける松本さんのイメージとは大分違っていて、流石に若かったし、地味な作業をバリバリとこなしているという雰囲気がありました。若かった所為もあって、とても気さくで、SF世界に関しては、話し始めると止まらないほど熱心な印象がありました。その後「マリンスノーの伝説」「銀河鉄道999」「1000年女王」などでお付き合いしましたが、もう大分長いお付き合いということになります。お付き合いが深くなるに従って 、彼はまるでやんちゃな次男坊のような印象を持つようになりました。実はわたしの弟が、ほとんど彼と同じで、言動がそっくりなのですよ。行き過ぎがあっても、憎めない方で、昨今、さまざまな話題を提供しましたが、(らしいな)と思いました。

次はといえば、石ノ森章太郎さんですね。彼は永井豪さんの師匠にあたる人でしたが、わたしが東映本社の特撮番組での仕事が多かったこともあって、そこで沢山の原作を提供していた彼とは、出会うことが多かったのですが、お互いに多忙なこともあって、個人的にお付き合いする機会はあまりありませんでした。もちろん「ゴレンジャー」「がんばれロボコン」「ロボット110番」「キョウダイン」「氷河戦士ガイスラッガー」などの打ち合わせで本社へ出向いた時に、ちょっと健康問題についての話をして別れたりしていましたが、晩年のこと、久しぶりに彼と出会った時、あまり憔悴していたので、思わずわたしは、「とにかく健康には、充分気を使って下さい」と声をかけましたが、「ええ。有難うございます」と答えて、力なく去っていった姿が、今でも忘れられません。

その頃からのお付き合いといえば、横山光輝さんです。「鉄人28号」「六神合体 ゴッドマーズ」、「17歳の伝説」のお付き合いでしたが、特に「六神合体 ゴッドマーズ」の時には、打ち合わせ会にわざわざ出ていらっしゃって、原作である「マーズ」は執筆した時から大分時間が経過しているので、テレビ化に関しては、

「藤川さんにお任せいたしますので、内容は自由に変えて書いて下さい」

原作者としては、考えられない言葉が返ってきました。 ほとんどの原作者が、メディアが違うとは言っても、自分の作品にはこだわるのが通例であったし、「マーズ」もかねてからかなりのマニアがついている作品であったので、その内容を変えてもいいという返答は大変な英断で、よほどわたしを信頼してくれないと、言えない言葉だと思いました。

「有難うございます」

やや興奮しながらも、平静を保ちながら答えたものでした。しかし次の瞬間から、絶対に失敗できないという重責を担わされた気持ちになったものです。しかしその後の大きなヒットにつながって、共同原作で「17歳の伝説」という映画も制作されたことを思うと、感慨深いものがあります。

あの作品を執筆した後で、わたしは放送と言う世界から、出版という異世界への転進を考え始めたので、ある意味では記念の番組といったほうが、いいのかもしれません。

横山氏わたしと同年であったこともあって、急逝されてしまったことは残念でなりませんでした。

最後になってしまいました。手塚治虫さんのことを書かなくてはなりません。あの方とは「新鉄腕アトム」「プライムローズ」を作ったのですが、中でも日本テレビの「愛は地球を救う」という大イベントの中で流されるアニメーション番組の脚本を書いたことは、わたしにとっても忘れられない思い出でもあります。

実は「宇宙戦艦ヤマト」に関して、大変不快に思っていらっしゃって、ちょうど「新鉄腕アトム」の制作に入る時のことでしたが、わたしは日本テレビからメインライターとして指名をされていたのですが、どうしても手塚さんから許可がでずに、何ヶ月も執筆できずにいたことがありました。番組はほとんど終了に近くなってしまいましたが、そんなある日のこと、手塚さんのマネージャであった、現手塚プロ社長である松谷氏の計らいで、高田馬場の某レストランで、手塚さんと会食するという手はずが整えられました。

食事をしながらでしたが、アニメーションを楽しむ児童に対する思いを話し合いました。一体これまでの行き違いは何だったのだろうかと、首をひねりたくなるようなひと時でした。お互いに、何の異存もないということを確認しあいました。どうやらあの「宇宙戦艦ヤマト」に対する手塚さんの思いは、ほとんどNに対して向けられていた怒りであって、制作にかかわった、わたしを含めたスタッフに対してのものではなかったことがはっきりしたのでした。その日の別れ際に、手塚さんから、次回の作品で、是非、一緒に仕事がしたいという申し出を受けたのでした。もちろん願ったり叶ったりのお話です。その結果誕生したのが、「プライムローズ」だったのです。

その脚本の決定稿の打ち合わせを、手塚さんのお宅ですることになったのです。取り敢えず打ち合わせを終えたところで、

「藤川さん、ちょっと待って下さい」

そう言って、奥の部屋へ入って行かれました。

間もなく戻って来た手塚さんは、

「色がつけられなくて、ごめんなさい」

そう言って色紙を差し出されたのでした。

実は相当前に、松谷氏を通して色紙をお願いしてあったのです。それでもわたしはあまり期待しないでいたのですが 、手塚さんは忘れずにいてくれたのでした。

そんなさまざまな思い出がある手塚さんでしたが、わたしの放送作家30周年と、小説「宇宙皇子」の出版、アニメ映画「ウインダリア」の発表をかねた大パーティが行われた折には、関西からわざわざ駆けつけて来て下さったことは、今でも忘れられない思い出の一つとして残っていますいろいろな方との思い出は、書きつくせませんが、またの機会を見つけて書きたいと思います。今回は手塚さんがわざわざ奥の部屋へ入って書いてきて下さった色紙と、偲ぶ会の写真とともに紹介させて頂いて終わりにしたいと思います。☆

手塚治虫さんを偲ぶ会の写真
手塚治虫さんの色紙の写真
「プライムローズ」(前編)の写真
「プライムローズ」(後編)の写真