観る世界 Faile 12 「原作者と脚本家」

今回は原作者と映像化する際の脚本家との関係についてお話したいと思います。

映像作品を制作するには、昔から小説という活字の世界からか、コミックなどの原作を基本にするかが常識で、脚本家のオリジナルでいくということは、極めて稀なことで、ほとんどその機会はありませんでした。

理由は簡単です

知名度の低さが原因です。作品を制作した時に、その営業的な成果の広がりが期待できないからだそうです。昔もそうでしたが、現在でも経済的にかなりシビアになってきているので、少しでも赤字は出さないで、営業的な結果を出さなくてはならないところから、どうしてもそんな図式になってしまうわけです。とにかく原作に知名度があって、誰でも知っていてくれることが、その後の営業を有利にするからです 。そんなことから、どうしても原作提供者は限られてしまうのですが、昨今特に注目度の高いアニメーションに関しては 、テレビ化に当たって、その原作にはコミックを取上げることがほとんどということになってしまっています。結果的に出版界、テレビ界では、コミック作家が大変大事にされるようになってきています。しかしそのために、かなり前から新たな問題が派生してきています。つまりコミック作家・・・つまり原作者とテレビ化に当たって担当する脚本家との間に起こる摩擦ということです。

かつてわたしもコミックを原作とした作品を沢山書きましたが、おおむねその原作者との関係は良好で、手塚治虫、松本零士、横山光輝さんとも、とくに悶着も起こさずに作業をしてきました。その第一の前提となるのは信頼関係です。それは原作者と脚本家が、問題なく作業を進めていくためには、絶対に必要な条件です。

お互いに自己主張をしつづけていては、決裂するしかありません。

表現する媒体がまったく違うのですから、かなり違った消化のし方があるはずで、そのへんの微妙な食い違いは、お互いに理解していないと、どうしても衝突をすることになってしまいます。

わたしは脚本の執筆を前に、こういう風に原作を纏めていくつもりですということを、原作者に直接説明したり、プロデゥーサーを通して説明したりしました。その上でお任せしますという了解を頂いたのです。そんな中でも横山光輝さんは、テレビはまったく別のメディアだし、作品も昔のものですから、時代に合うように自由に変えてみて下さいと、大変好意的なお返事を頂いて作業をしたことを覚えています。  シリーズを構成し、脚本を担当するわたしとしては、大変有難いことでした。

横山さんもテレビ化される作品が多かったので、そのへんの呼吸というものを、充分に知っていらっしゃったのでしょう。大変やりやすい方でした。そんな中から長期ヒット番組となった「ゴッドマーズ」が生まれたのですが、「銀河鉄道999」もそうでした。長命番組には、そういった原作者と脚本家との、信頼関係が不可欠なことだと思いつづけていました。

ところが最近わたしの耳に飛び込んでくるのは、絶えずその両者間で対立が起こっているという、いやな噂ばかりです。その一番大きな問題は、何でしょうか・・・。

それは何といっても作品の取上げ方・・・少し専門的になりますが、切り口の決定について、原作者と脚本家との間に対立が生まれてしまうということなのです。原作者は当然のことですが、自分の目指す方向は変えたくないし、作品は傷つけられたくないでしょう。しかし脚本家は映像作品として如何にいい作品・・・如何にエンターテイメントとして喜んでもらえるかということに力点を置くことになるので、もっとこうした方が面白くなるし、話も矛盾しないという確信から、時には狙いを変えたほうがいいと申し出ることもあるわけです。

小説でもコミックでも、印刷媒体の世界のものですが、テレビは映像と言う世界です。はっきりと表現の仕方が違うものだし、読者と視聴者では、その受け止め方も違うし、作家と脚本家では、その表現の仕方に大きな違いが出てきます 。作品の狙いを如何に読者に訴えていくか、如何に視聴者に訴えるかということでも、その効果の上げ方に違いが出てくるのは当然なことです。

ところが昨今は、そういった根本的な問題の上に、それらを更に複雑にする問題が起こってきています。コミック作家がかなり若手が多くなってきているので、脚本家の要求をまったく拒否してくるそうで、中には絶対に原作を変えずに映像化しろという要求を突きつけてくるそうです。感性はいいかもしれませんが、まだまだ作品的に未熟な作品が多いところから、脚本家にとっては気になるところが多いのですが 、力関係で止むを得ずコミック作家の言うように処理している脚本家が多いということです。もちろん脚本かも若手がおおくなってきていて、未熟な者も多くなってきていますから 、余計にこういった摩擦も多くなってきているわけです。

だからといって、そういった問題を放置していては、両者の間にある立場の相違は埋まらないし、対立もまったく埋まりません。

わたしのところへ飛び込んで来る話を分析すると、そのほとんどが原作者との最初の出会いで、やっておかなくてはならないことが放っておかれていた結果だなと思うことが多いんです。

脚本家は、その原作をこんな風に仕立て上げたいということを出して、原作者との橋渡しでもあるプルデゥーサーに伝えて了解を取っておかなくてはならないはずですが、出版社の編集者も、映像関係のプロデゥーサーも、橋渡しとしての役割を果たしていないのが現実です。

昨今はあまりにも原作者が強くなってしまったことや、編集者もプロデゥーサーも力不足で、両者の溝を埋めることが容易にはできなくなってしまっていますし、時には面倒くさがって、そういったことから逃げてしまっている人もいるように思います。

脚本家出身のわたしとしては、先ず脚本家の心がけについての反省をしなくてはなりません。

その第一は、何と言っても脚本家である者はしっかりとした作業が出来なくてはならないということです。昨今は制作予算の削減の余波で、力のある脚本家は原稿料の関係で依頼できないことから、どうしても若手に仕事が廻ることがあり、その結果お任せでやらせてしまうと、どうも原作者の作品に賭ける思いを、逆なでしてしまうことになってしまって 、その結果絶対に変えてはならないという要求が突きつけられてしまうことになるのです。そんな問題を解消するためにも、先ず脚本家の若手は、ただ稼げればいいというのではなくて、実力をつけ、質的に高まっていくということを心がけていかないといけないと思います。しかし原作者も・・・コミックの連載の場合は、その回が面白いということが求められることと、マンガというものは感性が決めてなので、物語としては矛盾する展開であっても、ほとんど気にしない場合が多いのです。そんな作品がテレビ化されるという時は、どうしても前述したような話し合いを持って、連続して見て行くドラマとしては、矛盾するところを訂正しながら進めていかなくてはならなくなるのです。従って原作者も、映像化に当たっての変更は認めてもらわなくてはなりません。

原作者には、たとえ脚本家が熟練度も浅い若手であっても、プロデゥーサーとの作業を信頼して、処理を任せるだけの余裕を持って頂きたいと思うのです。いつまでも原作を、まったく変えずにシナリオにせよなどということを要求しつづけていると、結果的に若手は修練する機会を失ってしまって、その実力はまったく伸びなくなってしまいます。

そのためにも、若手脚本家には、その作品をどう取り上げるかということで、原作者と脚本家の間に立つ、出版社の編集者、映像関係のプロデゥーサーは、一緒に話し合う機会を作って番組の進行についての基本的な考え方を決めていって貰いたいのです。

昔から、「餅屋は餅屋」ということが言われてきました。映像化をする時は、最終的に映像関係者に処理は任せるようにして貰いたいものです。それでこそはじめて、お互いを信頼して作業を見つめあうことができるようになるのではないでしょうか・・・。きっとそんなことが出来るようになったら、結果もいいものが期待できるようになるのではないでしょうか。

はじめに書きましたが、原作者と脚本家がお互いに信頼感を持って作業ができないと、すべてがうまくいきません。そこでわたしが原作者の立場に立った、「宇宙皇子」(うつのみこ)の映像化の時は、作品の狙いだけ伝えて、あとは一切脚本家には注文をつけませんでした。その代わり脚本家に責任を持って貰わなくてはなりませんが・・・。昨今はそんな雰囲気が、ほとんど失われてしまったようです。時代の変遷で、いろいろな点で厳しいものがあるということは充分に判っているのですが、原作者からは「変更を絶対に認めない」、後輩脚本家からは「原作者横暴」という非難と不満が伝えられてきていて、とてもいい結果が生まれる環境にはないように思われます。

出版と映像と言う、違ったメディアが協力し合わなければ、大きな広がりを生み出すことはできないのですから・・・。原作者とのいい関係を保ちながら、気持ちよく作業をするという雰囲気を、一刻も早く回復したいものだと思うのですが・・・☆