観る世界 Faile 16 「中間色談議」 1
今回は観る世界の話なのですが、その本題に入るまでに、いささか遠回りをして、何回かに分けてお話したいと思っているのです。
どうかそれを承知でお読み下さい。
昨今の世の中を見つめていると、すべて白黒はっきりとさせないと、気がすまない時代がやってきてしまいました。たしかに白黒はっきりとさせるということは、大変判りいいことだとは思います、時には必要であることでもあります。
これまでかなり長いこと、真偽がはっきりとしないようなことが、平気で存在していましたし、物事をはっきりとしすぎると、とげとげしくなって、却って敬遠されてしまう風潮がありました から、いわゆる玉虫色の結論にしておくようなことが、かなり存在していたのです。つまり事の真相というものを、いちいちほじくるようなことをするなという風潮が、一般的に通用していたのです。しかし現代では、そういったことが、却って悪影響を及ぼすというので、すべてのことを、はっきりりとして、誰にも判り易くしておこうという雰囲気になっています。それは大変いいことだとは思うのですが、その反面それが行き過ぎてしまって、不必要に悶着を起こしてしまうことも、続発するようになってきています。
こんな流れが勢いづくのも、実は長いこと、事態が硬直して解決できない時など、仲介者が現れて、所謂玉虫色の解決ということが行われて、争う者のどちらにも不満が残らないようにしていたことが原因になっていたからなのです。しかし現実には、結局どちらにも不満が残る結論を、受け入れざるを得ない状態を生み出してきてしまっていたのです。
確かに昔は、よく言えば人脈・・・悪くいえばコネが大手を振って通用していましたから、その分謎めいた不可解なことも多く存在していました。それを追及することは面倒だし、どちらかと言うと、白黒はっきりとしようとする者は嫌われてしまう風潮うがありましたから、多少問題があっても、なるべく無関心でいようとしていたことも多かったのです。そのためによくない者は 、そうした風潮を利用して、絶えず裏取引をしていたことものも事実だと思います。
ところが現代の風潮は、そうしたよく判らないような決着の仕方に、反発する世代が勢いを得てきたことが、勢いづけてきたからだと思います。
確かに曖昧なまま置いておくと、その真相を推し量ったりしなくてはならないために、社会経験の豊富な大人はいいとして、若い人には理解し難いし、高齢でさまざまな判断力が低下してきた人には大変迷惑でした。とにかく厄介な社会的な通念でしたが 、それが当たり前のように行われてきたわけです。
しかし世界的にさまざまな変革が進んできて、日本もすべてを曖昧なまま、放置しておうことはできなくなってきています。
ところがです。
判りいいということを推し進めていくと、どうもその弊害も生まれてしまうのです。そしてそれは、時と共にあまり感心しない方向へ進んでいるようにも思えてくるのです。
白黒はっきりとするということは、真偽をはっきりとするということで、本物と偽物をはっきりとするということで、すべての人が安心してものを見たり、手に入れたり、楽しんだりできるわけですから、大いに賛同したいことです。
ところが最近は、高齢者の中には、いささか白か黒かで決めたがる風潮に、いささか辟易している方々がいらっしゃるのではないでしょうか。どうも行きすぎる者が突出してきたり、単純化が進みすぎて、いささか判断力が足りない者が出てきてしまったりしてきたからです。
白か黒か、本物か偽物か、間違いか正しいかという二者択一的なことばかりで、すべてが通用するのであれば判り易くていいのですが、その分物事を考え、推し量って判断するという作業をしなくなるし、できなくなってしまっている若者が多くなってきています。
残念ですが、苛々してしまう若者と出会うことがよくあるのです。「こんなことぐらいは察しがつくだろう」と安心していると、知識不足で何も知らないし、判断力もないし、ただただ唖然としてしまうことが、しばしばあります。
推理したり、推し量ったりするような、面倒な作業をする必要がない習慣にどっぷりと浸りきっているので、我々であったら常識だろうと思われるようなことさえも、理解できなかったり、察しがつかない人に出会ってしまうのです
社会経験が乏しい若者にも、高齢の老人にも、判断し易くするために、白黒はっきりとした提示をしたり、問いかけたりすることは、大変親切な配慮ですが、こうしたことをあまり推し進めていくと、結局メンタルな努力をしないで済むということにもなるわけで、その結果すべてが次第に子供っぽくなっていくことにもなるわけです。
説明が判りにくいと言うことはなるべく避けたいものですが、そうかといって推し量るような表現の仕方も、除去してしまうようなことはするべきではないと思っています。一時盛んに言われたファジーな感覚といったものも、その一つの表現だったと思うのですが、現代ではもうほとんど聞きません。あまり極端で、刺激的な表現をしたくない時には、大変都合がいい表現法なのですが、現代ではとても許されない表現です。そういった婉曲に表現するなどということは、許してはおかない時代がやってきてしまいました。
何もかもが幼くて、過激で、刺激的で、加速的で、とにかくすべてがハイテンションなものばかりです。その結果、損得、明暗、成否、恵まれた者と恵まれない者等々、すべてが二極化してきています。ところが最近は、そういった弱点を無視したまま、少しでもすべてを白日の下に曝して競おうという雰囲気になってきています。
これまでの弊害を思うと、大変いいことだと思うのですが、その結果かなり逆の効果が出てきてしまっています。それでも改革が進められていくことを、大いに期待したいし、支援したいとさえ思っていたのですが、その熾烈な雰囲気の中で、強者と弱者が生まれていってします。声高に叫ぶ者だけが生き残り、弱者は容赦なく切り捨てていってしまうようになってきたことです。世の中を勝者と敗者、富める者と貧しい者、目立つものと目立たぬ者等々、さまざまなことが二極化していってしまってきています 。
時代の厳しさがそうさせるのだろうと思いますが、かつてはかなり曖昧なまま済まされてきたことが多かったことから、そういったことに対する反発もあるのでしょう。しかし何でも判りやすくという風潮の影響で、昨今はちょっとこみ入ったものが、理解できないという弊害が生まれてきています。
一時はファジー・・・曖昧な感覚で事を処理することが流行った時代がありましたが、結局それは前の時代の玉虫色を言い換えたに過ぎませんから、いつの間にか消え去ってしまって、今はもう使われることもほとんどありません。それだけ厳しい選択が要求される時代になっているということで、とても中途半端は許されません。そのお陰で、作業が上手く進められるようになってきたことは確かなことです。
いい加減なことは許さない、間違ったことは許さないといった風潮は、温泉問題でも発揮されたように、一般のライフスタイルにも影響を及ぼしてきています。そしてそれが心理的にも影響を及ぼすようになって、かつてとはまったく違う価値観を生み出しつつあります。しかし何でもはっきりとしないものには、まったく興味を持たないし、関心もないという風潮になってきてしまいました。
しかし決していいことばかりではないようです。こうした白黒はっきりしたことを求めることが一般的な生活の感性となっていくと、或る面ではまるで無関心になって言ってしまう分野があるのではないでしょうか・・・。
そのことについては次回で書くことにいたします☆