観る世界 Faile(18)「中間色談義」 3

これまで社会現象の極端な変化、自然現象の極端な変化についてお話しました。変化の激しい時代で、とてもファジーな・・・曖昧なことは許してはくれませんが、旧世代のわたしには、あの中間色という淡い色合いが大変好きなのです。しかし現代は、とにかく激しくかっていかなくては効果がないのですから、どうしても激しく、刺激的で、衝撃的な処理が求められてしまいます。つまり何でもはっきりとした色分けがないと承知しない・・・理解して貰えなくなってしまっているのです。もっと別の言い方をすると、判りいいことだけを受け入れるという、幼児的な風潮が蔓延してきてしまっているのではないでしょうか。

とにかく極端な表現の仕方しか受け入れられなくなっているようです。

はっきりとしない、曖昧な表現があった場合、その意図を推理したり、推測したりして、その内容を汲み取るのは、とても子供にはできません。かなり大人でないとできないことです。

ところが現代はそんな状況を放っておくゆとりはありません。

速やかに事態の進展を図らなくてはならないので、白か黒かといったような、結論の出し易い形に纏めてしまいます。しかしわたしたちの生活の中には、微妙な問題がかなり存在するはずです。困ったことは、そういったことが存在しているということさえも納得できない人がかなりいるということなのです。

要求する方も、もっと判り易くせよ、もっと、もっとと要求するようになっています。しかもそれが受け入れられないとなると、そっぽを向いて拒否してしまう我がままぶりです。

こんな風潮が蔓延しているので、すべてが判り易くはっきりとして、極端から極端へと変化せざるを得なくなってしまいます。

こんな風潮から考えると、中間色とも言える微妙な変化などは、とても受け入れることなどできるわけがありません。

そこでお話したいのは、わたしがかなり長いことかかわってきた、アニメーションについてのことなのです。

話が飛躍しすぎるかもしれませんが、極端なことしか受け入れられなくなっている時代の風潮を考えているうちに、ひょっとして小さな頃の情操教育に問題があるのではないかと思うようになったのです。

前にも一度、アニメーションが時代と共に、次第に幼児化してきてしまっているということを、書いたことがありますが、幼児化すればするほど問題があると思っているのです。つまりこの媒体における色の使い方に、問題の根っこがあるのではないかと言うことなのです。とても一般の方には判らないかもしれません。

つまり中間色がないということなのです。

「そんな馬鹿な・・・」

たちまち反論がありそうなのですが、上のセル画を見て、夕焼け空は完全に中間色を使って描いているではないかと言われそうです。

しかし違うのです。

下の絵は、前方の絵と後方の夕焼け空は、まったく違った手法で書かれています。

アニメーションのセル画を見たことがある方でしたら、直ぐにお判りになると思いますが、背景になっている絵は、通常の絵の具で中間色を使って描かれたもので、前面のキャラクターは、今回問題にしているアニメーションの絵具によって描かれたものなのです。

通常アニメーションの色といえば、あのキャラクターの色使いがベースなのです。

あなたもご覧頂ければよく判って頂けると思うのですが、アニメーションのそれは、実に強烈で、どぎつい、刺激が強い色使いをしているでしょう。つまり原色に近いような色使いをしているのです。視聴者への印象度を強くするためです。しかしそのことが、大変気になっていたのです。しかもそれを見る者が、幼児から小学、中学生という若者・・・昨今は特に若年層が視聴者の中心だということを考えると、ちょっと心配になるのです。

このことは、アニメーションにかかわり始めてから、間もなく気がついたことでしたが、とうとう最期まで解消することができないまま終わってしまいました。そしてそれは、現在でもほとんど解消されてはいません。

小さな頃から強烈な、刺激的な色使いに見慣れてしまったら、ソフトな色という存在を知らないまま、ソフトな色を感じ取る感性を磨けないまま育ってしまうということを考えると、いささか不安になってしまうのです。

人間が本来身につけている、本来持っている素養を、開発する機会がないまま成長してしまった時、どんなことが起こるのでしょう。

反応がいつでも判り易く、強烈でなくてはならなくなってしまうように思えてなりません。

そのことについては、親しいプロデゥサーに話したことがあったのですが、間もなく、アニメの色使いの中に中間色を入れるということは、極めて難しいというか、ほとんど無理であるということが判りました。その原因は、絵具が通常我々の使う絵具とは、材質が違うためだということだったのです。

アニメーションでは、下絵をセルロイド板に写され、それに絵具で着色して行くことになるのですが、それが通常水で薄めて撫でて描く問いやり方ではないのです。アニメの場合は、絵具を上から落とすと言ったほうがいいかもしれません。しかもそれに色を混ぜると言うことも苦手です。色の上に重ねて落としていくと言ったほうがいいかもしれません。

そのために色を薄めるとか、混ぜるとかいうような細工が出来ないのです。

つまりあのアニメーションの色使いは、制作者の意図によって使われるわけではなく、絵具本来の性質によるものだったということがはっきりとしたのです。

それ以来、講演会を依頼された時には、譬えアニメーションをアピールしなくてはならない場合でも、必ずアニメーションのいい点と悪い点を話すことにしていました。

お母さんたちは、理由をはっきりと言わずに、子供がアニメーション番組に夢中な子供に対して、「いつまでも見ていちゃいけません」というのが精一杯です。これでは言うことを聞くわけがありません。

「なんで?」と逆襲されると、「駄目って言ったら、駄目なの!」と叫ぶしかありません。「判ってねーなぁ」と、無視され、まったく納得してはくれなくなるでしょう。

こんな問題を多少でも解消するためには、頭から押さえつけないで、なぜアニメーションにだけ夢中になっているといけないのかという理由を、説明してやるといいのです。

頭から否定してしまう人がいるようですが、どうかこれからは方針を転換して、しっかりとした理由を持ってお話し合いをされてはどうでしょうか。

これまで三回にわたって、はっきりとし過ぎる時代の問題について、いろいろな面から考えることを書いてきましたが、こんな話題を取上げてみようとしたきっかけは、このアニメーションの問題をいつか書こうと思っていたことがきっかけでした 。

何もかもが極端で、刺激的で、強烈で、テンションばかりが高い時代を支えているのは、実は情緒的にも穏やかなものを大事にする気風が、意図的に否定されているような気がしてならないからなのですが・・・☆



この話は、旧HPに載せたものに、加筆、訂正したものです