観る世界 Faile(27)「花見の季節ですが」

地球温暖化の影響でしょうか、今年は大分早い桜の開花が伝えられています。

なぜか桜の季節になると、気分が浮き立ってくるのですが、これは何といっても、冬の季節から解放されて、気候が暖かくなるせいだと思いますが、そんな浮き立つ気分を華やかに飾り立ててくれるのが桜ということになるのでしょう。

そこで今回は、「見る」ということで材料を考えました。

もう、開花したところも多いかと思いますが、今回はこの季節になると避けては通りない行事ともいえる、「花見」についてお話することにしました。

もう、おおよその見当はつくでしょうが、これは決して現代特有の行事ではありません。

古代からの大事な慣習といってもいいでしょう。

当時、国や地方を統治している大王などは、「国見」「山見」などということをして、自然の、民の勢い・・・つまりその「気」を貰って活力にしていましたし、のちには花を見てその精気を貰おうということから行われていたのですが、とにかく「見る」ということは、極めて大事なことだったのです。その一つが、所謂「花見」というものだったのです。

もちろんはじめは高貴な人々や知識人たちは、中国の文化人がやっているように、「梅」の花を観賞するということが行われていたのですが、やがて農民たちも、農作業の準備が整った季節を選んで、食べ物、飲み物等を持って、近隣の人々を誘い合って近くのの山へ出かけて行ったといわれています。

ところが彼らが花見をした対象は、決して現代の「桜」ではなく、「つつじ」だったのです。

現代のように、古代では特に桜が植えられたということもなくて、ほとんど原野に自生していたものしかなかったので、農民たちも花といっても桜というイメージはなかったに違いありません。

農民たちは花見をすることで、その霊気を貰って活力にしていたのです。

やがてその時来られなかった者のために、花の霊気を届けてやろうという配慮から、現代では勝手にこのようなことは許されていませんが、花を手折ってきて、そ人の家に届けてやったり、訪ねて来る客のために、玄関に飾ったりするようになりました。

ところで古代では・・・貴人たちはどんな花を愛でていたのでしょうか。もちろん桜ではありません。桜を花見の中心に考えるようになったのは、平安時代の嵯峨天皇が、神泉苑の桜の木の下で、文化人たちと詩宴を開くようになってからだと思うのですが、もっと古い時代では、まだ桜は野山に自生しているということはあっても、特に関心を集めていた存在ではありませんでしたから、古代の権力者、知識人たちは、中国の文化人たちの影響を強く受けていたところから、広大な庭園に植えられていた、「梅」の花の下で宴を開き、詩でも作りながら、花見を楽しんでいたのです。

それに対して農民たちも、大事な行事の一つとして、花見を行っていました。いよいよ農作業を始めるに当たって、健康な体を整えておくために、花の気を貰いに、ツツジが咲き乱れる近隣の山へ、飲み物、食べ物を持って、仲間たちを誘い合って出かけて行ったのです。そしてその時たまたま病気であったり、長いこと寝込んでいて参加できない人がいたりすると、その人のために花を一輪手折って来て、「元気になるように」といった思いをこめて、活きのいい花を届けてやったりしました。それが時をへるに従って、来客を歓迎する意味をこめて、家の入口・・・つまり玄関などに、その一輪の花を置くようにもなったのです。

お花見と人とのかかわりには、こんな深いかかわりがあったのですが、昨今はそんな気遣いや、お花見に寄せる思いというものは薄れてしまって、単なる大騒ぎに終始してしまったり、無造作に桜を手折ってしまったりする者が現れます。古代では花の「気」を受けるという大事な風習がありましたから、決して滅茶苦茶はしなかったはずです。取り敢えず「花見」での大はしゃぎは、花の気を受けるという理に叶ったことなので、まぁ、大目に見てもいいとしても、せめてその大はしゃぎの原点は、どんなところにあったのかということぐらいは、知っておきたいものですね☆

駒沢公園の春の写真