観る世界 Faile(46)「映像時代とはいいながら」

最近、訃報がつづくという話を、別のコーナーで書きましたが、先日は、私たち放送にかかわる者の著作権問題で活動して下さった作家の寺島あき子さんのお別れの会がありました。

集まった作家たちも流石に、いささか年配の方々が多かったように思いますが、若い作家たちの姿があまりなかったのは残念でしようがありませんが、これも昨今の風潮なのでしょうか。いささか残念なことです。

こうした先人の努力があって、自分たちの権利も擁護されているのだということを、認識し直して貰いたいものです。

そこで出あった同時代の作家たちの出会いは嬉しいことでしたが、その中の一人であったYさんとの対話の中で、若い人たちが、あまりにも映像というものについての知識がないのに呆れるという話が出てきました。

彼も若い人に講義をしにいった経験もあり、仕事の現場で若手と出あうこともあり、彼らと話す中で愕然とすることに直面しているようでした。

つまり現代は如何にも映像の時代であるかのように思えるのですが、映像に関して、実に基礎的な知識にも欠けていて、呆れるばかりであるということでした。実はそのことについては、現在、大学でもの作りの原点についての講義をしている私の感じていることと、まったく変わりがないということだったのです。

何につけても、出来上がったものを楽しむだけで、それがどんな形で作られていったのかなどということには、まったく興味がないのでしょう。先ず、映画を製作するには、脚本が書かれるのですが、その出来如何で、作品の成否が決まるのだということなどに、まったく関心がないし、知識もないということなのです。

一見、映像時代のように思われるのですが、如何に底が浅くて薄っぺらな風潮なのだということを確認して、愕然としてしまいました。

新学期が近くのを機会に、そうした基礎的知識を、しっかりと植え付けて、本当の映像時代にしなくてはならないと、改めて感じたのでした☆