思う世界 Faile 9 「恐怖と畏怖の差」

流行というものは作られるということを、つくづく考えることがあります。何かをきっかけにして、一気に広がっていくためには、それなりに必要なものがあります。つまりそのきっかけになる起爆剤というものです。つまりその材料となるものがなくてはなりません。そしてその爆発を更に大きな爆発とするためには、大きな組織や資金が必要になります 。

ところがそうした努力の上に、市民の関心を高め、口から口を通してその裾野を広げていくには、何が必要ということを考えることが、もっともっと大事なことになります。

今回取り上げたいのは、実は「流行」ということではありませんが、しかし絶えず繰り返して押し寄せて来る新たな「流行」に、市民はいつも揺さぶられていくということなのです。

もう、大分前のことになりますが、若者を中心にした社会現象になったものに、「朝シャン」というものがありました。しかし大変なブームになったはずなのに、昨今ではその言葉さえもほとんど聞きません。それほどその習慣は定着したのでしょうか・・・。どうでしょうかね

もうご存知の方も多いと思いますが、これは大手の化粧品会社が宣伝機関を使って仕掛けた、流行だったようです。

まぁ、特にファッション、化粧品などに関しては、アパレル産業が仕掛けて流行を作り出すことはよく知られていますが、どうも流行とか風潮などと言うものは、確かにある仕掛けがあって、社会的にうねらせることができるようです 。

昨今のように、いろいろなものに国境がなくなってきていると、或る国で起こった風潮が、そのまま日本へも入って来て、仕掛け次第でその時代の気分と、フィットしてしまうということが起こりやすくなっています。そんな風潮を象徴する現象としては、恐怖物・・・ホラーとその周辺の推理物の流行ではないでしょうか。もう流行というよりは、すっかり定着してしまったようです。

時代の勢い、テンポとフィットしてしまって、そこに生きている人の気持ちにもフィットしてしまったのでしょう。心理的に不安な時代にぴったりとしてしまって、映像も小説もそういった類のものが圧倒的に好まれているようです。やはりそれは、時代が求めていたということになります。この二十数年は同じようなものがつづいているように思います。かつてわたしの「宇宙皇子(うつのみこ)」が出版された頃は、それが引き金になって、一時は古代史ブームというものが、何年もつづいたことがありましたが、今は所謂ホラーと推理物のブームがつづいています。はっきり言って、わたしはそういった類のものはあまり好きではないのですが、一冊だけそれらしいものを書いたことがあります。もちろんその中身は、歴史の中にあった恐怖の対象物を素材にしたものが中心でしたが・・・。

やはり恐怖物を好むようになったのは、それだけ時代が窮屈になって、心理的にもゆったりとはしていられなくなったことが原因でしょう。とにかくホラー作品が大ブームになったのは、それまでゆったりとした生活を支えてきた、経済的なバブルが崩壊したり、時代の風潮で家族が崩壊したりといった、生活の根底を支えてきたものが、みるみるうちに崩れていってしまうといった、不安を背景にしたことだとは思います。そうした市民の心理状態を利用して、小説も、映像も、みな「恐怖物」が蔓延していってしまいました。しかしわたしは、どうも人を恐怖に陥れるようなことが好きではないし、興味もないので、そういった作品はほとんど書いたことはありません。まだそれをあくまでもその人の楽しみだと割り切って捉えている範囲ではまったく問題ないのですが、世の中にはすぐに便乗する輩が登場してきます。模倣する軽薄な輩も登場します。

人を恐怖に陥れると言うことが、実際には起こってもらいたくないことですし、起こしてはならないことなのですが 、現実には恐怖政治、恐怖政治を行う国も存在しているようです。それでも世界の大勢は、少しでも煩うことのない生活ができるようにしようということを、目標にしていますし、政治家もそれを具現するために努力をしているはずです。あくまでも「ホラー」はエンターテイメントの一種であって、現実には市民が欲しがっているものではないはずです。

ところがそうした表現の、手段の一つであったものが氾濫していってしまい、そういったことをすっかり忘れてしまって、まったく関係のない人を恐怖に陥れる者が続出してきました。そしてそうした心理的に極度に不安に陥れるような「こと」や、そういった「もの」が氾濫するうちに、失ってはいけないものさえも押しのけていってしまったことがあります。

一方で、かつてお互いに社会生活を営んでいく上で、犯してはならない基準があったのに、そんなものがまったく失われてきています。それはどんなことでしょうか・・・。同じ「オソレ」ということでも、まったく意味が違う、「畏怖」ということです。

この「おそれ」には、敬うという意味が含まれていますが、前述の「おそれ」というものには、「敬う」という要素はありません。

この敬い恐れる対象物は何なんでしょう。

その代表的な存在は「神」ですが、そういった絶対的なものの存在が薄れていったときから、どうも社会道徳も、倫理観も薄れてしまって、人を恐怖に陥れるような事件が頻繁に起こるようになったのではないかと思ったりするのです。  かつては絶対的な存在で、侵しがたい存在であった「神」というものが、現代ではただ単に信仰の対象物であって、信仰と関係のない者にとっては、まったく興味がなく、無関心といったものに変ってしまいました。「神」に咎められ、裁かれ、罰を科せられるという「恐怖」も、まったくなくなってしまいました。

現代にはそういった、超自然的な存在が存在しなくなってしまったからでしょう。すべては科学力でなし得るし、謎と言われる不可解な存在であっても、超科学力がありさえすれば、解明できないものはないと言われる時代です。

人間から謙虚さが失われてしまいました。

その所為か人間関係においても、その人の前では圧倒されてしまって、言葉も容易に発せられなくなってしまうというようなことは、ほとんどいなくなってしまいました。つまり「畏怖」ということが当てはまる存在が、ほとんどなくなってしまったということなのです。そういったものを失ってしまった人々は、人工的に生み出される「恐怖」というものを面白がっています。ホラーというジャンルの小説、映像作品が受け入れられているのはそのためでしょう。

自分よりも、大きな力を持った者が存在するという考えから、謙虚さが生まれると思うのですが、そんなものはすべて無視していく時代がいいはずはありません。自分が絶対な時代なんて、ただ我がまま勝手な時代でしかありません。

相手への思いやりもまるで持ち合わせない、自己中心的な凄惨な事件も頻繁に起こります。「神」にひれ伏すような謙虚さというものを失った人間たちは、傲慢不遜に生きるばかりです。まして人間に対しての接し方にしても、配慮を欠落した人が多くなってきています。人を恐怖に駆り立てるような事件が続発しているのはそのためでしょう。彼らは「畏怖」する存在を失ってしまっているからです。

神を信仰せよなどということは言いませんが、少なくともその人・・・またはある存在の前では、知らず知らず, 頭を下げてしまう存在・・・そうせざるを得なくなるような畏れ多い人を持っていたいものです。もしそういった人が増えていってくれたら、少しは謙虚さが甦ってくるし、自分勝手に振舞う事件は起こらなくなるだろうし、被害者も出ないですむかもしれないと思うのです。「恐怖」と「畏怖」には、天と地ほどの差があるように思います。現代はその大事な「畏怖」というものを、失ってしまっているように思えてならないのですが、どうでしょうか・・・☆

「恐怖のKA・TA・CHI」の写真