思う世界 Faile 15 「NO2であること」

わたしは、かねてから注目している古代の人物に、二人の高官がいます。藤原不比等と物部麻呂という人物です。前者は右大臣、後者は左大臣にまで昇りつめた人物ですから、あまり古代の歴史には興味のない方でも、彼らの名前ぐらいは、学生時代に目に留まるか、耳に入ってきたことがあるかもしれません。飛鳥京、藤原京、平城京という古代の都で、権力者として活躍した二人ですが、この二人には、大変特徴的なところがあります。

壬申の乱が大海人皇子の勝利で終結した後、皇子は天武天皇となって、飛鳥時代が始まることになるのですが、藤原不比等と物部麻呂という二人は、朝廷においてほとんど同時に歴史に名を記すようになります。もちろんまだまだそれほど要職についたわけではありません。しかし天武天皇が亡くなって、皇后であった?野讃良(うののさらら)がやがて持統天皇となって君臨するようになると、二人はぐんぐん頭角を現していきました。

もともと麻呂の先祖である物部守屋は、少年時代の聖徳太子も巻き込んで蘇我馬子と対立してしまい、壊滅させられてしまった悲劇的な歴史を背負っていたので、殆どの一族は四散してしまって力を失ってしまったのですから、物部氏がこうして朝廷の中で出世してくるには、とても普通の努力ではなし得ないことなのです。一方の藤原不比等は前の帝であった天智天皇の重臣であった、中臣鎌足・・・後に藤原の姓を賜った一族の出身で、飛鳥時代になっても朝廷で仕事をするには、特別の支障はなかったわけです。

二人の生き方には、明らかに違いがあったはずなのですが、特に藤原麻呂については、朝廷に抱えられた経緯から判断することも困難です。抹殺された氏族である物部の出身であることから、並大抵のことでは、朝廷に仕えることもできないし、出世するなどということもできるわけはありません。

よほどのことがなかったら、失職したまま路頭にさまよっていたに違いありません。ところが・・・、やはりそれなりの理由がありました。

いろいろと調べていくうちに、大海人皇子と戦った、前帝の皇子である大友皇子の警護をしていた麻呂は、壬申の乱で追い詰められて、逃げ延びようとしていた大友皇子の首を、警護役である麻呂がはねたのではないかという疑いがあるのです。そんな推理をさせるような記述を見たことがあるのですが、もしそうだとすると、彼はその首を持って大海人皇子・・・天武天皇の前に差し出せば、その功績によって召抱えられることになってもおかしくはありません。それにしても、その後彼には、どこかどす黒い不気味な印象が付きまとうのは、この時の出来事からかもしれません。

そんな麻呂の恐持ての努力は、天武天皇が亡くなり、持統天皇、元明天皇、元正天皇と女帝がつづく中で一気に高まっていきました。麻呂はついに右大臣に就きます。

一方の不比等ですが、女帝の時代になって、地位を得て行くと、せっせと職務をこなしながら、皇族に尽くしながら、藤原一族の力を広げていきました。

飛鳥京から藤原京をへて、平城京へと都が変わる間に、朝廷の中で着実に地歩を固めていった不比等は、一族の勢力を伸ばすと同時に、元明天皇の時、「古事記」「日本書記」などという史書を完成させていきました。当然のことですが、朝廷からは、左大臣への昇進という話が持ち出されました。しかしなぜか彼は、絶対にそれを受けようとはしませんでした。その編纂にかかわった官人としては、右大臣藤原不比等と記させたのでした。

当時の政治の世界では、圧倒的な権力者になることが、すべてを支配することにも繋がるところから、不比等がなぜ頂点へ登ろうとしなかったのか大きな謎です。しかしその後からの麻呂と不比等の間には、大きな差が現れていきました。

左大臣として朝廷の頂点に立った麻呂は、女帝たちから恐れられるほどの権力を握りましたが、不比等は四人の息子たちと共に、藤原一族の裾野を広げていきました。

麻呂のほうは、朝廷に昇って来る時に、腰に佩いた太刀の金具が、かちゃかちゃという音がすると、怖いといって震え上がったという女帝の歌が、万葉集の中に収録されていますが、不比等にはそのような不気味な話は、ほとんど取り上げられてはおりません。彼はあくまでもNO2の地位を守りつづけました。

その結果でしょうか、やがて飛鳥、藤原京を引き払って、平城京へ遷都することになった時に、麻呂は留守居役として藤原京へ残されることになるのです。

華やかに新たな京となる平城京へ皇族と共に移っていく、不比等との運命的な別れが、この時にあったのでした。

すべての人が去って、不気味に静まり返った廃墟に立ちすくんだ麻呂の胸に去来したのは、どんなことだったのでしょうか。

蘇我馬子との戦いで、滅亡とまで言われた氏族の出である不利を跳ね除けて、朝廷につながり、生き抜くには、並大抵の努力では生き延びられなかったでしょう。あの冒頭の大友皇子の首をはねるという逆賊のそしりを免れないような出来事をきっかけにして、近江朝から飛鳥朝へと生き延びてきたのです。この世に生を享けたときからこうした生き方をすることを、運命付けられていたのかもしれません。特に問題を抱えることもなく、先祖の威徳を受け継ぎ、守られながら生きる不比等が、悠然と彼らの勢力を伸張させていけるのとは、大変対照的なことです。不比等が敢えて常にNO2の地位に甘んじていられたのは、ある種の余裕というものかもしれません。

麻呂は人気の去ってしまった藤原京に残されて、どんな思いになっていたことか・・・ついにすべての過去を燃やし尽くそうとするかのように、もぬけの殻となってしまった宮殿に火を放ち、自らも生涯を賭けた戦いをしつづけてきた、飛鳥の地と共に、その命を絶ったのでした。

その後も平城京で勢力を張って、四人の息子たちと共に権勢を得て、思うがままに生きた藤原不比等は、それまであくまでもNO2を押し通してきましたが、そうした生き方が、最後の勝利者としての栄耀栄華を掴む鍵となったのではないかと思えてくるのです。

とにかく頂点へ昇りつめて権勢を誇ろうとした物部麻呂は、それ故に退けられてしまったとしか言いようがありません。

何でもいいから、目立たなくてはいけないという現代の風潮ですが、出る杭は打たれるの喩えではありませんが、大げさなパフォーマンスばやりで、うんざりしているのです。

わたしはいつかこの物部麻呂の数奇な生涯を小説化したいと思っているところなのですが、さて、あなたはこんな対照的な二人の生き方を、どう思われるでしょうか☆