思う世界 Faile(19)「消える思い出」
今回は消滅していく話がいくつか登場してしまいましたが、これも思い出が消えたお話なんです。
実はわたしの、放送作家としての出発点となったのは、東京港区赤坂の一ツ木通りにあった、末広荘というアパートが、ついに新たな開発のために消滅してしまいました。
「港区赤坂4−27−2 末広荘202号」
思い出の住居表示は消滅してしまいまったのです。
たまたま娘が所用で赤坂を訪ねた時に発見して、写真と共に状況を報告してくれたのですが、思わず絶句してしまいました。 一見して木造のわびしいアパートのように思われそうですが、当時としてはなかなかしっかりとした、マンション風の建物でした 。
三階建ての建物の中には、九つの部屋がありましたが、男性は私だけで、後の住人はすべて女性ばかりというところでした。 最上階はオーナーである、かつて花柳界で活躍したのではないかと思われる女性がすんでいましたが、地下にはフグ料理のお店があるといったところでした。
この裏手には、歌舞伎の市川猿之助・・・現市川猿翁がオーナーであったアパートがあり、そこからは夕方になると、芸者さんが人力車に乗って御座敷へ出て行くといった、大変粋な雰囲気の漂っていたところでした。
私のいたアパートの住人は、大人なりが芸者とコールガール・・・あまり公には言えない仕事をしている女性でしたし、上の階の住人は、すべてナイトクラブのホステスでした。そんな中で新人放送作家の私が一人いたわけで、きっと変わった奴が来たもんだと思われたでしょうね。
仲間はみな少しでも家賃の安いところに住んでいましたが、私はあえて都会のど真ん中を選んで生活することにしたのでした。まだ潤沢に稼げるという状態にはなっていませんでしたが、敢えて高い家賃のアパートを選んでのでした。
実は、探し、探して決めたという訳ではなく、新聞で捜した不動産屋さんが、薦めてきたところの一つが、ここだったのです。 アパートの前には、一次不動尊の境内の一部だということもあって、玄関前にはお墓があるという環境でした。
ここを出て表通りへ出ると、所謂、一次通りという賑やかな通りがあるわけです。
ここで私は、これからどうなるのかという不安と、これから作家としての生活が始まるのだという、意気込みとが交錯する複雑な日々を送ることになったのでした。
幸い、近くにTBSテレビがあったこともあって、脚本家としてのスタートを切ることができました。
ここでほぼ十年近く住んでいましたし、結婚もしました。子供も二人できました。
しかしこのアパートは、所謂生活をするところではなかったのです。赤坂という歓楽街の、さまざまな店で働く女性のための、仮の宿といったところだったので、夜だけ寝られればいいということで、すべてが小ぶりで小さな部屋があるだけでした。
よくあんなところに長いこといられたなと思うのですが、多少仕事が軌道に乗り始めたころには、仕事関係の人がやって来るし、友人たちが次々と訪ねて来るしで、人気が途絶えたことがない状態だったのです。
まさにわが青春の宿だったわけです。
いつか、あのアパートでの生活ぶりを小説にでも纏めたいと思っていたのですが、某社から出版の話が出ていたものの、不発に終わってしまいました。
いろいろな思い出がぎっしりと詰まったところでしたが、ついに時の経過の結果、思い出のアパートは、跡形もなく消え失せてしまいました。
すべては私の胸の内にしまう時がやってきました。 あの頃、やって来て、青春を語り合った人々の心の内に沈潜していくことになってしまいました。
すべての原点となるところを失ってしまうということは寂しいことではあるのですが、いつまでも思い出に浸っているわけにもいきません。現在の世田谷に、新たに思い出を積み重ねていく時がやって来たのかも知れません。☆