思う世界 Faile(20)「達成感のマジック」

最近、あまり耳にしない言葉の一つに、「頂点を目指して頑張る」ということがあります。スポーツの世界では、わりに使われることもあるように思うのですが、ごく一般的な生活のなかでは、あまり耳にすることがありません。特に学校の中では、競争を煽るようなこと、格差を助長するようなことは、ほとんど使われなくなってしまっています。学校ではほとんど競争するという雰囲気は作らずに、自分なりに精一杯やれればいいという雰囲気になっているようです。そういったいったことに反発して、逆に学校が面白くなくなってしまい、塾へ通うという現象が起こり、そういったことが学校崩壊の要素になっているということもあります。そういうことに対処するために、学校へ塾の教育を持ち込んだところも出てきてしまったところもありますが、しかしその逆に、学校での勉強にいい結果が出ないことから、すっかり意欲を失ってしまって、その態度をたしなめる親を逆恨みして、昨今では肉親を殺害するということも起こってきています。

まったく難しい時代になったものだと思いますが、最近、気になっている言葉があるのです。少しでも楽な気持ちにさせようという配慮から、仲間との競争に勝つということよりも、自分なりにどの程度達成出来たかを目指して勉強したり、何かに向かうことを訴えかけています。

そんなことが浸透している所為でしょうか、「自分なりに達成感があったので、満足です」というような言葉を聞くことが多いと思いませんか。

大変、へそ曲がりな論調になりそうですが、この「自分なりの達成感に満足しています」という言葉に、いささか満足し過ぎているようおもえてなりません。

最近になって、ようやく学力の低下が盛んにかせばれるようになって来ましたが、「自分なりに、結果に関しては達成感に満足しています」などということをいっている限り、学力の向上はあり得ないということを申し上げたいのです。

問題なのは、「自分なりにしの達成感満足している」という「達成感」という言葉のマジックで、大変いい気分でいる人が多すぎるということなのです。

あまり緊張しないで、リラックスして取り組みなさいという配慮から言われた言葉が、いつの間にか頑張るということの姿を 、捻じ曲げてしまったように思います。

「少しでも頂点を目指して努力しよう」とか「少しでも頂点を目指して努力します」など、頂点を目指して努力するという言葉が、まるで禁句のように扱われてしまって、自分なりの達成感という言葉の美しさによってしまって、満足してしまっている人が多すぎます。

つまりこの達成感というものには、大きな落とし穴があることに、どれだけの人が気づいているのでしょうか。つまり達成かというものには、それぞれの到達点があって、人によっては高い所にその目標点を置いている人もいるし、人によっては大分低いとことに目標点が設定されていることもあるわけです。

そんなわけですから、「達成感に満足しています」などと興奮気味に発表していたとしても、決して驚くことでもないし、羨ましいとも思うようなことではありません。しかしいろいろなところで、最近はこの「達成感に満足」している人が得意気に跋扈しています。

さて、あなたはどうでしょうか。

達成感のレベルを。どの程度にしているでしょうか。

少しでも高いところ、少しでも深いところ、少しでも遠いところに目標を持って努力して貰いたいですね。

しかし・・・一生懸命努力した結果、その目標点には到達しないで終ったとしても、決して失望しないことが、肝心です。昔の悪い点は、そういった人を馬鹿にしたり、軽蔑したりしたことです。

結果の成否については、とやかく言わずに、努力をすることを楽しみにしたいし、誇りに思いたいものですが、どうでしょうか☆

旧・赤坂不動入口の写真
旧・赤坂不動と末広荘の写真
現・赤坂不動入口の写真
現・末広荘跡地の写真