思う世界 Faile(28)「表現下手な時代」

かなり前のことでしたが、若い人を中心にして、何かを聞かれた時に、一々「鳥肌が立った」という表現をしたときがありました。

感動したと言う表現を、決まったように「鳥肌が立った」というのです。この時わたしはHPの中で、あまりにも鳥肌が立ちすぎますと、皮肉を籠めて書いたことがありました。

大体、鳥肌が立つと言う意味も知らないまま、誰かが使った言葉に野かって、同じような表現をしたのでしょう。ほとんどの人が、同じようなことをいうので、あまりの言葉の貧弱さ、表現の貧弱さに呆れてしまったのです。大体、「鳥肌が立つ」というのはどういう状態の時に使われるのかも知らないまま、誰かタレントが使った言葉に鮮度を感じて使い出したのでしょう。

個性を重視すると言いながら、何と無個性な表現をするものです。

大体「鳥肌が立つ」というような表現は、文語体というもので、所謂口語体というものではありません。つまり活発な日常会話が行われている時代にしては、何と、時代感覚に合わない表現をするものだと思ったものでした。

まぁ、単なる言葉遊びだと思えば、大して木にならないことかも知れませんが、それにしてはあまりにも感情表現が貧弱すぎます。

しかもあまりにも無個性すぎます。

そんなことを感じて苛々としていたら、今度は一々「感動しました」の連発です。

言葉だけが空しく飛び交っています。

一体、感動したというのは、どんな時に使われるのかということを知っているのだろうか。もし知っているとしたら、何と現代はやたらに感動する材料が、ごろごろと転がっているものだと思うしかありません。

前の時代に流行った「鳥肌が立つ」と言う表現も、本来どのような時に使われるものかを知らないで、まるで新しい玩具でも扱うように、格好良く、面白いからということで、弄んでいたに過ぎなかったわけで、今回の「感動しました」も同じようなことなのでしょう。

その言葉を聞くたびに、言葉の持っている重みというものがなくなってしまって、記号でも扱うように、単なる伝達の手段として使われるに、過ぎなくなってしまったのでしょう。

どうも若い人を中心に、言葉が軽々しく弄ぶ風潮がありますが、その原点を辿ると、どうもそれはマンガにあるように思えます。

時代の感性を、鋭く衝いてくるということでは、大変面白い表現のメディアだとは思っているのですが、愉しむ側には、やはりバランス感覚が大事です。

昨今は、活字を中心とした分野の存在感が薄れてきてしまって、ほとんど若い人に振り向かれないことが多くなってしまっています。どうもその分、若者の言葉が貧弱になりすぎているように思えてなりません。

かつては言霊といって、それぞれの言葉が持っている重みと言うものを大事にしていたものでしたが、その存在感をほとんどの人が、あまり感じなくなってしまったのでしょう。昨今起こる悲惨な事件にしても、言葉の行き違いから起こる摩擦から引き起こされた事件が、あまりにも多くなりすぎています。

そろそろ言葉遊びは言葉遊びとして、真剣にコミュニケーションを図る時には、真剣にその真意が伝えられるような言葉・・・気持ちの表現というものを、身に着けなくてはいけないように思えます。

つい先頃WBCの野球試合が行われましたが、優勝の感動に浸る歓喜のパーティの最中に、イチロー選手が発したことを聞いただろうか。

彼は「おめでとう」という呼びかけに対して、「あざっす」と答えていました。

若い人は直ぐに理解したかも知れませんが、私たち年配者には、何がなんだか判らないまま、聞き流してしまったのではないかと思います。

多分あれは、「有難うございます」ということを、現代風に表現すると、「あざっす」ということになったのでしょう。あの興奮の最中に発する感謝の気持ちの、咄嗟の表現としてはじつに簡略で、端的に表現できていると思うのですが・・・。果たしてどれだけの人がそれを理解したでしょうか。若い人は理解しても 、おそらく年配者は、呆然として聞き流してしまったに違いありません。しかしそれにしても、こうした簡略な言葉の表現が、またまた流行るのでしょうか。もしそれを無造作にあちこちで使うようになると、またまた表現下手を露出することになってしまうような気がするように思うのですが・・・。

言葉と言うものは、その使い方が実に難しいものですね☆