思う世界 Faile(29)「待つ信仰」

日本人の精神的な土壌となっているのは、どういう風土なのであろうかというようなことを考えるようになりました。

京都へ通うようになったのがきっかけかもしれません。

古都で眺める月は格別のものがあるのですが、だいぶ前に「楽しむ世界」で「ツキ」という話を書いたことがありました。その時、ツキは巡ってくるので、今、どうもツキがないと嘆いている人も、そう嘆いていることはないということを書いたことがあると思います。

そんなことと、大いに関係があるのですが、日本の月にまつわる言い伝えを調べてみると、十七夜の月の出が早いから立って待てばいいし、十八夜の月は少し遅いので、座って待てばいい。十九夜の月の出は更に遅くなるので、伏して待つ。二十日の月は寝て待つという風に、月の出るのを待つ時間に関して、このようなことが言われていますが、それだけ人と月との関係が身近であった証拠です。

昨今はこうして月を待つ風習などは、ほとんど見当たりませんが、それなのに、ついていないとか、ついているとか、ごく日常的に使われているのは、おかしなことです。

日本十は、こうして月と親しみ、毎日、月が出てくるのを待っていたのです。つまり人々は「ツキ」が巡ってくるのを待っていたのです。

この他にも、十三夜待、十六夜月、二十三夜待、二十六夜待と、何と「待つ」信仰の多いことか。

そんなことを考えていると、日本人というのは、本来待ちの信仰を持っていたので、さまざまな物事についての決断、判断に、所謂即断が出来ないのではないかと思うようになってきたのです。

さまざまな要素がいい方向へ向かうまで待つという習性が、国民性として残っているように思えてきたのです。

すべてがグローバル化していく中で、「待つ」という優雅な信仰が、足を引っ張ってしまっては、それこそ「ツキ」を失いかねないなと思って、大変複雑な気持ちになっているのですが、あなたはどうでしょうか☆

満月の写真