思う世界 Faile(31)「産業革命の教訓」

今さらどうしてそんな古いことをおっしゃるかもしれませんが、温故知新で、まさに歴史に学ぶ時が来ているように思うのです。ただただ前に進めばいいわけではありません。

今の社会状況を見つめていると、改革の名の下で、行け行けになっていますね。その中身は違うといっても、どうもあのバブルの時の悪夢と同調してしまうような、不安を感じたりしているのです。

とにかくその大きな流れ、勢いづいた流れは、余計なものも、失ってはならない大事なものさえも、無造作に流し去って行ってしまいます。

この喧騒が鎮まっていった時、「あれはどうしちゃったんだ」というようなことがあるのではないだろうかと考えてしまうことがあります。

西欧で起こった産業革命というのは、やがてフランス革命という大きな事件の引き金になって行きましたが、そのけん引車となったのは、暮らしの様子が大きく変わったために起こって来た、市民の気持の変化であったような気がします。結局そのきっかけとなったのは、科学の大きな進歩だったと思うのですが、そのために失っていってしまったものが沢山あったのです。

当時の話を「幻想皇帝」という小説に書いたことがありましたが、あの産業革命からフランス革命の最中に起こったことの、注目すべきことというと、心の問題があったように思うのです。 西欧では人間の生と死を司る者といえば、教会の牧師ということになっていますが、市民の価値観が大きく変化していってしまって、病気になれば病院へ駆け込むし、そこで命の終わりを迎える人も出てきます。それまでの時代では、そんな時に引導を渡すのは教会の牧師さんというのが決まった役割だったのですが、科学の魅惑に取りつかれてしまった市民たちは、病人を病院へ送りこみ、そこで医者が死を告げるということになってしまったのです 。そのために牧師たちが大量に失職してしまったり、世界的なベストセラーと言われる聖書の売り上げが、がっくりと売れなくなってしまうという現象を引き起こしたことがあったのです。

科学絶対という風潮が、心の問題を無視していくようになってしまったのです。

昨今の我々の周辺を見つめると、どうもこの頃のことを思い出してしまうのです。

毎日、命を奪うような殺伐とした事件が起こりつづけています。

自ら、命を断ってしまう人も沢山現れます。

しかし科学力は日進月歩で、長足の進化を遂げて来ています。 それにつれて心の問題を考えさせられるような事件が、起こりつづけているのです。

科学の進歩と心の問題のあり方を考えていると、歴史の教訓というものを、いつも忘れ去っていく人間の愚かさというものを、考えさせられてしまいます☆

「幻想皇帝」の表紙