思う世界 Faile(54)「知未多に出よう」

今年の成人式に思うことがありました。

あまりにも意欲のないのに愕然としてしまったのですが、兎に角外へ出ないでインターネットをしているだけで、休日を過ごすというものが多いということにはびっくりしてしまいます。それについて、人とのコミュニケーションはとれていると、肯定的にいって平然としているコメンテイターがいる。人間関係というのは、人間と少しでも間近に接していくことから、お互いに感じ合っていくところに意味があるはずで、インターネットでは、肌触りは伝わりません。

家にいるだけで過ごす若い人の状況が判って、愕然としてしまいます。

こんなことでいいのでしょうか。

おとなしくて、まじめで、親に忠実で、殊更夢も持たず、夢に向かっていくこともないのを、素晴らしいことだと思えるでしょうか。

政治が駄目だからということは、簡単です。いつの時代でもいえそうなことです。

矢張り自分から、今の自分に改革を求めて動こうとしなくては、話になりません。

人と出会いましょう。

人の肌触りを感じましょう。

そのためにも、知未多(ちまた)へ出ましょう。ただ人ごみの中を歩いて来るだけでも意味があるのです。古代の人がいった知未多(ちまた)というのは、町に出てくれば、いろいろな変化に触れ、いろいろな情報が飛び交っているところ知未多(ちまた)へ出ましょう。ただ人ごみの中を歩いて来るだけでも意味があるのです。古代の人がいった知未多(ちまた)というのは、町に出てくれば、いろいろな変化に触れ、いろいろな情報が飛び交っているところ、かけ甲斐のないところだといっていたのです。

家に閉じこもっていることが、素晴らしいとは言えません。

若者たちの意欲欠如も、そんなところに原因があるように思います。

尊敬できる人も、「親」というのは、悪いことではありませんが、先人たちに誰もいないというのは、せっかちな時代の風潮に振り回されているためなのだろうか。いささか知識の吸収という意欲の欠如を感じてしまうのですがどうでしょう。余計な情報ばかりが氾濫してしまって、じっくりと一つのことを見つめていられないのでしょうか。