思う世界 Faile(58)「知識の伝達について」

わたしは大学の教育に携わるようになってからは、まだごくわずかな期間ですが、この五年間はさまざまな変革期で、それだけさまざまな学生と接ることになりました。文科省の指示で、その時その時の教育方針が変わったこともありましたが、そしてそれと同時に、学生たちにも変化があって、教育ということについて、いろいろと考えることがありました。

その一つは、何といっても、知識の伝達ということです。

私は芸術大学なので、一般の大学とはちょっと違った形にはなりますが、若者と接するということでは同じです。

社会に出て、何かしたいという希望を持っていることも同じです。 しかし・・・。

かつてはそれぞれの教授が、研究してきたものを伝えながら、その後継者となるべき人を育成していくということに意味がありました。ところが現代の学生たちは、私たちが学生であった頃とはまったく違っています。

教授から得た知識を元にして、自分でその先を追及していくという形では、とても学生たちを失望させてしまいます。

今こそ、教育者は、知識の伝達の方法を考えなくてはならない時が来ていると思うようになりました。

実は同じようなことを、二十年ほど前の小説誌でエッセイを頼まれた時に、書いたことがありましたが、当時の教育評論家から賛同して頂いたことがありました。

もう、ただ教えるということではなく、その伝達の方法を、真剣に考えないと、教授の授業にまったく関心を持たなくなってしまう時代が来ると思っていました。ところが昨今の学生と接しているうちに、あの頃のことを思い出すことがよくあります。

幸い私のゼミに再び参加したいと集まってくる学生が多くて、嬉しく思っているところなのですが、そのポイントは、その学生たちが欲しがっているもの・・・知識を提供してあげるということです。つまり、今やっていることが、学ぶ人にとって無意味なことではなく、それぞれ書くよう、工夫して活かせるという希望を持ってもらえるということなのです。

現在では、どんなに素晴らしい研究であっても、学生たちにとってまったく興味がない、興味を呼ぶものでなければ、追及してみようという気持ちになってきません。

昔はそれでもよかったのです。

しかし現代では、教育者がその伝達の方法を、真剣に考えてみる必要があるように思います。どうしたら、学生たちが注目してくれるだろうか。そういうことを、映像作品を書いたり、小説を書いたりしてきた私には、多少でも若い人との対話の術が身についていたということかもしれません。

少しでも、これまでとは違った教授と学生の関係を生み出していきたいと思っている、昨日今日の私です☆