知る世界 「桂川日記」(4)「なぜ、八坂神社が・・・」

京都と言えば、代表的なところは沢山ありますが、その中でも知名度としては、先ず御所ということになるでしょう。しかし大衆的な人気のある場所としては祇園ということになるのではないでしょうか。ところが今回取り上げる話題は、その祇園のことではないのです。もちろん、舞妓さんのことでもありません。実はその祇園の突き当たりにある八坂神社のことなのです。

とにかく京都というところは、歴史の上に歴史が積み上がってきているので、外部の者には理解しがたいことが沢山あります。今回の話もそんなことの一つということが出来るでしょう。

通常神社と言えば、所謂天上界での神々が祭られていることが常識です。もちろん京都には、上加茂神社、下鴨神社という代表的な神社が存在しています。ところがそれらの神様が、京都の信仰の中心的な存在として崇敬を集め、観光客にもその存在が浸透しているのかというと、ちょっと首をかしげてしまいます。もしそうであるならば、どうしてあのような中心地に、八坂神社を置いてあるのでしょうか・・・。もともとここには、東山にあった牛頭天王という農耕神を祭っていた庶民の神社で、上加茂神社、下鴨神社が行う葵祭りのような代表的な祭りは、貴族の祭りでしたが、一般的によく知られているといえば、どうしても祇園に存在する八坂神社ということになってしまいます。ところがこの神社の祭神は、天上界から追放された異端の神と言われている須佐男命なのです。それが一般的には京都の代表的な神社のように思われていることは、大変不可思議を感じてしまいます。

通常はこうした神は、無視されてしまってもいいはずなのですが、なぜ須佐之男命が祭神なのでしょうか。もちろん彼は、追放されたとは言っても、天照大神、月読命と並ぶ珍皇子(うずみこ)なのです。ところが天上で乱暴を働いたために、地上へ追放ということになってしまったのです。しかしそれからの彼は、各地を放浪しましたが、彼は本来の神力によって人のために貢献していきましたから、庶民の信頼を勝ち得ていきました。そしてそれと同時に、やがて彼は牛頭天王(ごずてんのう)という別称を持つようになり、厄除けの神としても信仰を集めていったのです。

実はこの牛頭天王というのは韓国の神なのですが、それがどうして須佐之男命なのだと言われそうですが、そのあたりのことは話がややこしくなるので、また別の機会に譲るとして、取り敢えず彼には厄除けの神としての役割が与えられていたといっておきましょう。

夏が来ると、京都では祇園祭りが行われますが、あれは正式にいうと、「御霊会祇園祭」といいます。つまりさまざまな霊を鎮める祭りなのです。この時期、疫病が広まり易いということから、当時の日本にあった国の数だけの山車を出して、それぞれの国の平穏を祈ったという説明は、実に穏便な説明です。しかしわたしは、その「御霊会(ごりょうえ)」という名称が気になるのです。

一般的には、「祇園祭」という名称は浸透していますが、その頭に、「御霊会」という名称がつくということは、あまり知られていないのではないかと思うのです。

京都は都となってからというもの、かなり激しい政争の場となってきましたが、当然のことですが、そこには勝者がり、敗者がありました。無念な思いをかみ締めながら亡くなっていった者は、数え切れなかったことでしょう。

そのためか有名な「北野天満宮」をはじめとして、「上御霊神社」「下御霊神社」「崇道神社」など、京都には「25社も怨霊を祭る神社があると言われています。一つの地域で、こんなにも怨霊神社が集まっているところは、かなり珍しいのではありませんか。

祇園祭りでも、本来は「怨霊会」というべきなのではないかと推理しているほどなのです。それだけ長いこと都でありつづけた京都は、激しい権力闘争の場であったということになります。

平安京では、禁苑といわれた神泉苑の広場で、863年には、怨霊を慰めるための行事が行われたことが記録されています。それがその後、日本各地に疫病が流行ったということもあって、その厄払いも兼ねて、日本にあった国の数だけ幟を立て、山車を出して、平穏を祈り、怨霊たちを慰めたというのが真相だったのではないでしょうか。

現在行われている祇園祭は、そうした行事から始まっていたことは間違いありませんが、やはり「怨霊会祇園祭」ではイメージが悪いので、「御霊会祇園祭」と穏便な表現にして、さまざまな霊をお祭りするということにしたのでしょう。京都市民は、日本でも有数の、霊と親しくお付き合いする市民ということになった真相です。京都へ行ったら、ちょっとそんなことを考えてみると、興味を増すかもしれませんね☆

八坂神社・門の写真
八坂神社・拝殿の写真
北野天満宮の写真
上御霊神社の写真
下御霊神社の写真
崇道神社の写真