知る世界 「桂川日記」(6)「野狂の人 篁の墓」 2

平安京の朝廷で、参議まで登った小野篁という人の存在を知ってから、噂に言われる人物像があまりにも意外だったので、一体この人の実像はどんなものだったのだろうかと、調べてみようと思うようになりました。

そこで平安京で活躍していた人なので、きっと京都に墓があるだろうということで、編集担当者と共に取材をしてみることにしたのです。歴史に詳しいというタクシーの運転手をお願いして、ホテルまで派遣して貰ったのですが、行き先を伝えると、暫く困ったような様子をしていました。つまり観光地として、それほど人が押しかけるところでもないようで、直ぐに判るほどよく知られたところにはないということなのでしょう。しかし流石にプロです。間もなく、「ここかな?」と言って見当をつけて連れて行ってくれたのが、堀川通りを北へいったところの、狭い空き地に、ひっそりと存在していたのでした。

余談になるかもしれませんが、びっくりしたのは、同じところに「紫式部」の墓もあるではありませんか。どうやらそのあたりは、かつて小野家の領地であったらしいのですが、やがて藤原氏が使うようになったとか・・・。境内へ入ると、お二人の墓は向かい合って作られておりました。確証はないとは言われておりますが、わたしにとっては嬉しい発見でありました。

普通は「紫式部」と言えば、邸宅跡と言われる廬山寺が有名ですが、墓が思いがけないところにあったものです。しかもわたしが目的とした、小野篁と同じところに向かい合って作られていたのです。思わず気分は大宮人になっていたのでした。

それからは取材にも気合が入りました。編集担当のT君、Y君と共に、琵琶湖西岸にあるという「小野の里」へ行ってみることにしました。少しでも篁の実像に迫りたいというのが願いでした。

わたしたちは中学生あたりになると、必ず歴史で習うのが、和邇(わに)氏という百済からの渡来人が、日本に漢字をもたらしたということです。彼らのことは、織物の技術をもたらした阿知使主(あちのおみ)と共につとに知られておりましたが、その和邇氏が駅名になって残っていたのには、びっくりすると同時に、遥か古代の歴史がそこに留まっていることに感動したものです。

ところが千年を越える時の流れが、そこに暮らしていた和邇一族を、そこへ静かに押し留めてはおきませんでした。

現在は和邇という駅名だけが残っているだけで、その一族の方は、当時でも一軒だけしか残っていないということでした。果たして現在はどうなっているのでしょうか・・・。

遠い歴史が、いきなり現代へ急接近してきてしまったのでした。きっと彼らが、そこに留まれない現実が、時の流れとなって襲いかかりつづけたのでしょう。

ところがびっくりしたのですが、我が小野篁氏もその周辺の氏族であったらしいのですが、どうやら小野氏は山師という仕事をしていて、鉱脈を探し出していたらしいのです。確かに小野の里の背後には、山波が湖へ向かって裾を広げているようなところに作られた、小さな町でありました。

ここで真っ先に眼につくものは、小野氏の始祖として崇められている、小野妹子の大きな銅像でした。彼こそが、あの聖徳太子の遣隋使として、「日出る処の天子・・・」という新書を持って旅立った小野妹子だったのです。大変由緒正しく、権力者の家柄と言うことなのですが、この小野の里で取材してみると、意外や意外。小野神社とか、小野篁神社などは建立されているというのに、小野氏と名のつく人は、まったく住んではいないと言うことだったのです。みな京へ登って行ってしまったということでした。それにしてもまったく小野氏が存在しないというのは、不可思議に思ったことでした。

現地には、一応郷土歴史館もあったのですが、そこには「小野篁」を辿っていける資料は、まったく存在しておりませんでした。却って館長から、何かいい資料でも見つかったら、教えてくれませんかと頼まれてしまったほどだったのです。

あれほど朝廷で高位に登った人でありながら、その故郷にまったく記録が残されていないというのは、いささか心に引っかかります。しかしこの一族には、後に小野道風、小野小町などという、一風変った人が出てきます。

遠い縁者の中には、宮廷歌人として万葉時代を築いた、輝かしい業績のある柿本人麻呂のような人もいたということですが、やがては終われるようにして飛鳥から去り、やがては水死させられたという不幸な伝説が残されていて、後の世の小野小町と共に数奇な人生を歩んだ人としても知られています。

どうも小野篁自身はもちろんのこと、その周辺には数奇な人生を歩む人があって、氏族自体に不可思議なものが漂いつづけています。そんなことが、「篁・変成秘抄」を描かせた動機だったのですが、この小説が文芸雑誌「野生時代」に掲載されると、評論家の故武蔵野次郎氏が、サンケイ新聞の文芸時評で、その物語性を大変高く評価して下さったのを、今でもよく覚えています☆

紫式部の墓での写真
篁・紫式部の墓入り口の写真
篁の墓での写真