知る世界 「桂川日記」(7)「現代京都事情」 1

京都で仕事をするための準備で、去年から何度も古都へ通うことになりましたが、正直いってわたしは、これまで古代を素材にして小説を書いていたとはいっても、そのほとんどは飛鳥を中心にしていましたので、京都については、その後半の作業のかかわりで、取材をしただけでした。そのために京都に関しては、浅く、広くといった状態で知識を持っているだけでした。しかし新たな仕事場の世界になるわけですから、少しでも足元のことを知っておこうと、歴史の掘り起しはもちろんのこと、昨今の京都事情も、多少は探って見ることにしたわけです。

歴史に関しては、歴史の上に歴史が堆積しているところですし、権力者が集中していて、経済、文化の中心地であった都という位置づけから、戦乱がたびたび起こりましたし、そのために複雑に歴史が重なり合ったりしていて、とても一朝一夕に飲み込めません。しかも若い人で、歴史や戦いが語れる人はいませんし、入ってくる情報と言えば、とにかく現代か、それに近い時代の京都に関するものに限られてしまいます。それでも何度か通っているうちに、これまで知らなかった、昨今の京都事情が飛び込んでくるようになりました。もちろんその一つ一つが、単なる噂に過ぎないことかもしれません。従って、間違いがないとは言えないのですが、少なくとも大宮人の率直なご意見なので、当たらずとも遠からずといったところということは、言えるのではないかと思います。

出会う地元の方々から、思いがけない話が飛び込んできました。そこでそんな「俄か見聞記」を、書いてみようと思ったわけです。

つい最近、京都の景観に関する条例が施行されるというニュースが流れていましたが、お話というのは、それにも関係がありそうなものです。実は京都の全体的なスケールのお話なのですが、まず、あの異様な京都駅・・・そういってはいけないのであれば、超未来都市を想像させる建築物と言い換えますが、たしかに先日親しい方と、その超未来型建築物を、大雑把に頂上まで探索しながらお話を聞くことが出来ましたが、いささかわたしなどよそ者には、想像外の話で、呆気に取られてしまいました。

彼はこの京都駅のデザインを決定することに、多少なりともかかわりを持っていたようなので、すべてが間違いであるとはいえません。

彼の説明よると、この超未来都市のような建築物の評価については、予想したように賛否両論だそうですが、実はあの駅の制作者たちの思惑には、京都の街づくりに関して、壮大な狙いがあったというのです。それは町の中心地に集中していた若者たちを、この駅へ惹きつけようということだったのです。どうしてそんなことをもくろむのかというと、町の中心地にショッピングを含めた、アミューズメントゾーンが集まっていると、結局そういったところへ、東京から大資本が入って来て中心地を支配するようになってしまうことから、地場産業が圧迫されてしまうからなのです。そこで若者が中心地を離れて、この京都駅に作られた魅力的なショップ、広場などに集まってくるようになれば、中心地へすべてが集中することもなくなり、東京などの大資本が入り込んでくることもなくなるということでした。しかもこれまで開発が遅れてきた、駅の南側を開発しようということであったと言うのです。その目的は、ほぼ達せられているようで、これまでの町の中心地は落ち着きを取り戻しながら、駅を境にして南側の地域は、次第に活性化しつつあるようです。

未来都市型京都駅の背後に仕組まれた、壮大な計画の真相というお話につづいて、もう一つ、十数年前に起こったもう一つの建造物に関しての聞き書きをいたしましょう。

今度は橋に関してのお話です。

あの鴨川に、フランスとの友好の橋を架けるという計画が持ち上がって、これまでの歴史的に町に密着してきた橋があるというのに、どうして違和感を承知で西洋風の橋を架ける必要があるのかという、自然環境保護、景観の保護上の問題が持ち上がり、わたしのところにも、市民団体からアピールのための原稿を書いて欲しいという依頼がきました。もちろん歴史的にもまったく存在しなかった、町の雰囲気と馴染まない洋風の違和感のある橋を、敢て架ける必要はないという趣旨の原稿を書いた記憶がありました。

フランスとの友好は、別のことで考えればいいではないかと、行政のいい加減な計画の立て方に、随分腹を立てたものでした。ところが最近の京都訪問の収穫の一つに、この洋風の橋の建設について、フランスとの友好とはまるで関係のないことが、たくまれていたという真相が判明したことがあります。

これも京都の町の作られ方に関係があるのですが、大雑把に町を縦割りにして、右京区、中京区、左京区、東山区という風になりますが、この左京区と東山区との間を裂くようにして、南北を貫いて流れているのが鴨川ですが、この地域間の経済的な格差問題が、その底流にあったということだったのです。いうまでもなく左京区にほとんど観光客を奪われてしまっている状況を、何とかしたいという東山区の人々の熱望で、集客をする大きなきっかけにしたいという魂胆があって持ち上がった計画だったのでした。

もちろん反対運動を起した原点は、左京区に商店を構える人々だったというわけです。

京都駅の問題にしても、洋風の橋の問題にしても、表向きに言われていることとは、まったく違ったことが原点になっているということがはっきりして、いささかがっくりとしてしまいましたが、これも時代の流れに従って、町づくりをどうするべきなのかということでの苦渋の結果なのかもしれませんね。

折角の京都レポートにしようと思っていましたのに、いささか興ざめになってしまったかもしれませんね。これが雅の世界である京都が、激しく変貌していく時代の波の中で苦闘する、現実の姿なのだと受け止めて頂きたいと思います☆

京都駅の写真
京都駅の写真 その2
京都駅の写真 その3