知る世界 「桂川日記」(8)「利休はなぜ・・・」

京都といえば、名刹、古刹が多いところですが、歴史にまるで興味のない人にとっては、実につまらないところでしょうね。

かつて京都駅前に着いた、観光バスの中から降りてきた熟年のおばさんが、京都は神社と寺ばかりでつまらないと、かなり不満気にはき捨てていくのに出会ったことがありました。たしかに、所謂観光目的でやって来た人にとっては、表面的に大して変化のなくて、面白味もないところだったに違いありません。しかしそれは、そのおばさんの、観光の質がかなり低かっただけのことで、京都自体がそれほどつまらないところであるとは思ってもいませんし、旅を豊かに楽しいものにする手立てを知らないだけのことだと思っています。

きっとあのおばさんたちは、デズニーランドへでも行くような気分だったのではないでしょうか。いや、そこまで極端ではなくても、日光江戸村をはじめとして、NHKの大河ドラマの収録跡に作られた史跡のセットを利用して作られた観光施設を見る程度に、京都というところを考えていたのではないかと思います。もし、そうだとしたら、あまりにも京都というところの特異性を知らなさすぎますし、舞妓、大文字焼き、祇園祭、葵祭などという慣行宣伝に使われる優雅な京都のイメージだけに期待して、安易にやって来てしまったための失望にすぎません。

京都というところは、かなり伝統行事の多いところですが、それを除いても、探れば探るほど興味尽きないところなのです。とても一日や二日で、すべてが飲み込めてしまうところではありません。

ちょっと深入りし始めると、あっという間にその謎めいた魅力に、取り込まれてしまう人が、かなりいらっしゃるのです。わたしの知人ですが、すっかり京都に魅入られて、東京へ奥さんを残したまま、京都にマンションを買い、住み着いてしまっている人もいるくらいです。京都に触れようとする人には、実に魅力的なものを提供してくれるところなのです。一つ一つの神社、古刹にも、さまざまな時代を刻んだ歴史の重みがあって、それなりに楽しみ方ができます。そのためにも、折角旅行に出かけるのであれば、その目的地がどんなところかぐらいは、知っておきたいものです。

 

つい先頃のことですが、わたしは豊臣秀吉に縁の深い、紫野の大徳寺へ行く機会がありましたが、聚楽第の遺構である唐門や、枯山水の庭、細川ガラシャの墓、石田三成の墓など、歴史にかかわる人の遺跡に触れながら、或る山門へさしかかった時のことでした。ここで起こった、ある事件を思い出したのです。

大阪での秀吉の評価は素晴らしいのですが、京都ではどうも評価がおもわしくありません。聚楽第を作ったり、洪水対策も含めて京都四方にお土居と呼ばれる土塁を建設して、洛中洛外とを分けたり、市中を縦横に町割をしたり、大阪から東本願寺を持って来たりして、観光の中心にしたりしたと 、その後の京都にかなり影響をもたらす貢献をしたようにも思うのですが、どうも秀吉の評判は、あまり良くないのです。

大体、天皇を中心とした皇族、貴族が雅な文化を作り上げてきた町ですから、氏も育ちもよくない秀吉などには、あまりいい印象は持っていなかったし、関心も持っていなかったことによのかもしれませんが、しかし何といってもその不人気の原因となったのが、この大徳寺を舞台としたある事件のためなのです。

茶の湯の実力者である千利休は、天下人となった秀吉と共に織田信長の家来であったのですが、秀吉が権力を手中に収めていくと同時に、利休もただ単に茶道の宗匠である枠を超えた存在になっていました。

まだまだ全面的に、秀吉に服従をしていない大名たちが、存在感を高めてきた利休を盾にして、何かにつけて反抗してきていたのです。そんなことを背景にしながら、事件は起こったのですが、利休は大徳寺山門の増築を援助したことが縁で、その楼閣の上に雪駄をはいた自分の木像を置いたのです 。よくここへやって来る秀吉が、この山門をくぐることは知っているはずなのに、実に大胆なことをしたものです。たとえ木像とはいっても、利休の足の下をくぐることになるのですから。それを知った秀吉は、烈火のごとく怒り、利休に切腹を命ずることになってしまいました。天下を掌握した権力者にとっては、とても無視してはいられない無礼極まりない振る舞いです。

もちろんこのことだけが、原因だったとは言えません。これまでの、何かにつけての反抗的な態度に鬱積するものがあった上に、娘のお吟を秀吉に差し出さなかったということ 、茶器の鑑定に不正を働いたということ等々が積もり積もった結果だったようではあります。結局天正十九年(1591)二月二十八日に、聚楽第横の自宅で、三千人の兵士に取り囲まれながら切腹させられてしまったのでした。

秀吉の怒りが尋常でなかった証拠に、彼の首は、一条戻り橋に磔になっていた、問題の木像と共に曝されてしまったのです。ということを考えると、推測できるのではないでしょうか。

それにしても、ただの茶人にすぎない利休に対して、絶対的な権力者である天下人としては、あまりにも狂人的であり、あまりにも大人気のない仕返しである。しかし武士でもない市井人である利休が、どうしてこれほどまでに、権力者に対して、挑戦的な態度をあからさまにするのでしょうか。天下人の態度に、許しがたいものを感じ取っていたのかも知れませんが、秀吉に反抗的であった大名たちに、踊らされた結果だとは、とても思いたくない世事にたけた人であったはずです。そうした大事に気がつかないほど、迂闊で軽率な人とも思えないのです。やはり大変な覚悟をしてのことだったに違いありません。穿った言い方をするとしたら、秀吉の度量を試すために、敢えて屈辱的なことを仕掛けて、相手の反応を計っていたのでは・・・とも思えるのです。しかし茶道を極め、大名たちの信頼を寄せられていたくらいの利休としては、あまりにも軽率なことをしたものです。それとも山門の増築をしたことに対する貢献で、このくらいのことをしても許されるともでも思ったのだろうか・・・。それではあまりにも、品格がなさすぎる思い上がりというものです。とても時代を代表する文化人とも思えないやり方でした。天下人となった秀吉にとっては、この屈辱的な仕打ちを、放っておけるほどの度量はなかった。天下にその威光を示すためにも 、断固とした態度を取らざるを得なかったのでしょう。それにしても無力の茶人に対する処置の仕方にしては、あまりにも大袈裟で、異常ではないだろうか・・・。

秀吉に対しても、利休に対しても、それぞれのとった行動には、(なぜだ?)という疑念が残るのです。京都には、そんな謎めいた人間模様が、幾重にも重なり合っていて、興味が尽きません。

旅行をするのであれば、多少でもその土地のことを、知っておくと、大変興味深くなるし、旅自体が大変楽しくなるのではないかと思っているのですが・・・☆

大徳寺門前の写真
大徳寺・唐門の写真
石田三成?墓所の写真
細川ガラシャ墓の写真