知る世界 「桂川日記」(10)「平安京のキィポイント」

観光シーズン突入の季節になりましたが、その人気度から言うと、京都は長年王座を守っていると思うのですが、どうも当り前な観光案内の影響を受けすぎて、京都の面白さの一つを掘り起こさないままになっているのではないでしょうか。

今回はあまり触れられない京都を素材にして、お話してみようと思います。

平安京の成り立ちについては、あまり観光ガイドについては触れられていないので、その成立時の狙いというものは、桓武天皇が天智天皇系列であったということから、天武天皇系列の人脈が多すぎる平城京では住みにくいということだけで遷都を決意したのかと思われがちなのですが、果たしてそうだったのでしょうか。

長岡京は中国で言われている都を選定する時の基準であった、四神相応・・・つまり東に桂川、西に丹後路、北に北山、丹波山系、東南には巨椋池が開けていたので、申し分のない方位学の基準に合っているところであったのに、そこをわずか七年で平安京に変えてしまうということは、確かにおかしなことだと思います 。

一説では、山城国へ勢力を伸ばしていた秦氏との密約があって、桓武天皇は平安京への遷都を急いだというのですが、確かに新京造営の最高責任者である藤原種継の母は秦氏であったし、同じ推進者であった藤原小黒麻呂は、妻が秦氏であったし、桓武天皇には母の系統に百済の血が流れていたので、渡来系住民の中でも強大な勢力を持っていた秦氏には、親近感があってもおかしくはないということが言われています。

ところがここで遷都を急ぐ理由として、相次ぐ不穏な事件を上げなくてはならないでしょう。

新京建設の最高責任者である藤原種継が暗殺されてしまったのです。それには桓武天皇の異母弟である、皇太子の早良(さわら)親王も噛んでいたというので逮捕され、淡路島へ流される途中で抗議の断食の末に死亡してしまったのです。当時の常識からいっても、この段階で親王は、怨霊になってもおかしくないのですが、親王は、死後改めて淡路に送られたのです。そあとから桓武天皇の周辺には、怪事件が渦巻きました。

夫人藤原旅子が死亡。生母高野新笠(にいがさ)も死亡。皇后藤原乙牟漏(おとまろ)も死亡。伊勢神宮の放火。新皇太子安殿(あて)親王は病弱といった、奇々怪々な事件が襲いかかってきたのでした。

呪いとか祟りというものは、その苦しみは、それが誰の怨霊によるものかが判るまでで半分、残りの半分は永久に、しかも直接には関係のないはずの人にまでつづくといわれているのです。これではとても穏やかでいられるはずはありません。早良親王の怨霊に悩まされていた桓武天皇は、平安京への遷都を急ぎたくなるはずです。

そこで先ず、京の北に崇道神社というものを造り、そこへ早良親王を祭って神社として、その怨霊を永久に鎮めようとしたのです。

さまざまな理由が挙げられていますが、やはり遷都の大きな理由には、これらの怨霊から逃れるためだったということがポイントだったのではないかと思うのです。

桓武天皇は自ら認めた密教という宗教以外には、平城京から旧仏教と共に、おかしなものが入り込まないようにしようと、最澄を長として取り締まりをさせるようにさせたのですが、それ以外にも平安京には、他にもそれなりの手が打たれているのではないかとチェックしてみると、ちゃんと打つ手は打っているのです 。

桓武天皇がまずやったのは、京の北には鞍馬寺があるし、その麓ともいえるところに、無念の死を遂げてしまった早良親王を神として祭ったことをはじめとして、原野の広がる南には、羅城門から内側の京へ怨霊が入り込まないように、その左右に東寺 、西寺を置いて、有能な呪術者に守らせたのです。その中には有名な、空海が東寺に君臨していたことは、あまりにも知られていますね。

京都をただ雅だけで考えないで、その成り立ちの頃の経緯から探っていくと、当り前の観光とはちょっと違った視点で京都を見つめられるのではないかと思うのですが、どうでしょう☆