知る世界 「桂川日記」(11)「現代京都事情」 2

縁あって京都へ通うようになってから、次第に親しみが増していきます。

もちろんわたしは歴史に関心があるので、拒否感というものはこれまでもほとんど感じたことがありませんでした。これまでも取材を兼ねて訪ねたことは、しばしばありましたが、今回のように、長期間にわたって京都へ通いつづけることははじめてのことで、それだけに新たな発見があるような気がしておりました。

やはりどうしても気になることは、町の発展ということと、景観の保存ということ・・・つまり歴史を時代の推移の中で、どう調和させていくかということです。どう考えても、両者を調和させていくことには無理があるようで、常に京都では、「景観論争」という形で、「歴史」と「時代」がぶつかり合ってしまっています。

前回の「現代京都事情」の1でも触れましたが、現在京都では、歴史の町であることと、集客のできる町との狭間で揺れつづけております。

ごく最近のことですが、サミットの誘致するキャンペーンが行われている時には、関西の乗り物に貼られたポスターには、「京都があってよかった」というコピーが使われていました。たしかに言葉としては美しいものですし、京都をアピールするものとしては、何となく的を得ているような気がしていました。しかし突き詰めて考えると、なぜ、京都があってよかったのかということの、根拠は示されていないことに気がつきました。じっくり考えると、このキャッチコピーは注意は引くけれども、ちょっと立ち止まって考えると、如何にも抽象的ではっきりといたしません。つまり具体的な根拠を示して迫るような訴求力はなかったように思います。

どうしてこのようなことを、再び書くことにしたのかといいますと、最近京都市では、建築物の高を規制する条例が成立して、ビルやマンションなどの高さが、大幅に引き下げられたのです。世界遺産周辺地域では、和風の勾配屋根の設置が美無づけられ、屋外広告も規制が強化されるようになったようなのです。

もちろんその理由は、景観を阻害するということが、京都を守るのに、大きな障害になっているという理由からです。

もちろんそれで、すべての市民が納得しているわけはありません。京都というところは時を重ねながらかもし出してきた、町の持つ雰囲気というものには独特なものがあります。他の都市にはないものがあります。

しかし・・・。

それらの歴史的な遺産というものを保存していこうとすると、自ずと予算を必要といたします。例えば古寺、名刹などは拝観料でまかなうことができたとしても、それだけで景観が守られるわけでもありません。当然ですがそうした観光資源を持たずに暮らしている、ごく一般の市民たちの生活の問題を考えなくてはなりません。それを行政の力で支えろといっても、とても無理なことです。それを支えるためには、当然ですが市の財政の基本である、税収に頼らざるを得ないということになります。そうなれば、町を活性化していく工夫をしなくてはなりません。結局ここで問題になってくるのが、町の活性化か、歴史風土の擁護かという相変らずの問題なのです。そんなものに価値観を感じないものにとっては、迷惑千万なことで、観光都市として、もっともっと現代的に、華やかな町作りをすることが、京都のためになるし、その財源によって、古都京都を守ることになるというでしょう。そこには、多少の犠牲も止むを得ないという含みがあります。しかし、前者の言い分にしても、町を現代的に活性化するということでは、ちょっと犠牲を伴わなくてはなりません。

何を犠牲にしながら、京都を魅力的な町としてアピールしつづけていこうというのでしょうか。

とにかく京都というところは、千年の古都ということでアピールしてきたところですし、それを大きな観光資源ともなってきたところです。その根本の資源を失うようなことがあっては、元も子もなくなってしまうでしょう。

わたしは畑違いのO教授と親交を結ぶようになってから、建築物と空間の織り成す微妙な美ということを、考えるようになりました。

京の町はいうまでもなく、史跡を訪ねていく時には、そんな観点から眺めてみるようになったのですが、もちろん観光地として知られていても、その歴史的な建物と、空間が織り成す美とは、まるで関係のないところもありますし、その逆に、実に言葉では表現できない美をかもし出しているところもあります。「五山の送り火」を行うのに、高層ビル群と、けばけばしいネオンは、雰囲気をぶち壊しますし、「祇園祭の山鉾巡行」に、マンションや現代的すぎる看板が氾濫していては、あまりにも雰囲気をぶち壊してしまいます。

ところが現在問題になっている景観論争の中では、そういったことは殆ど中心的な話題にはなっていないことが残念でなりません。本当は建物と空間の織り成す美のあり方、捉え方というものを、行政も市民も共有するということが、大事なのではないでしょうか。

ただ、高層建築物を抑えるというだけで、景観は守れるものではありません。そこにある建築物と周辺の環境とが、どのような美しさを醸し出しているか・・・そんなことが、行政と市民との間で真剣に語られ、努力していくようにならなければ、京都の景観論争と言うものは、いつまでたっても不毛の論争に終わってしまうのではないかと思うのですが・・・☆