知る世界 「桂川日記」(12)「秀吉と町づくり」

京都に関して調べていると、洛中洛外ということが、必ず言われる。このような仕分けをしたのは誰なのだろうか。少なくとも室町時代ぐらいまでは、そのような呼び方はしていなかったはずです。それでは、一体誰がそのような呼び方をするようにしたのだろうかというと、何と、豊臣秀吉なのです。

戦国時代となって平穏無事であった世から、戦いに明け暮れるようになり、やがてその名から、織田信長、豊臣秀吉という武将が現れて来て、天下を統一しました。

足利尊氏の室町幕府、源頼朝の鎌倉幕府などといっても、結局武士の頂上には達するのですが、それで天下を治めるなどということはできません。京都には朝廷というものが存在していて、所詮幕府の頂点に達したとしても、朝廷から征夷大将軍の地位を与えられるだけのことです。

そんな形をぶち壊して、京都を朝廷ごと丸のみにして、支配してしまおうと考えたのが秀吉です。彼は天下を取ると 、ただちに関白となってしまいました。本来は近衛、九条、一条、二条、鷹司の五摂家から出ることになっていたのに、なりふり構わずにその地位へ就いてしまうと、名前までその大本になる藤原を名乗ってしまうのです。しかし流石に無遠慮な育ちであったとしても、それはいささか気が引けたのか 、豊臣姓を作って認めさせてしまいました。それでもいきなり摂政となるようなことはしなかったのは、多少の遠慮というものでしょうか。

秀吉は伏見に城を構えましたが、京都には天皇が存在しつづけているし、どうも天下統一という認定には、疑問を感じてしまいます。恐らく京都の市民には、何が天下統一なのかと、大いに怒りを感じていたのではないでしょうか。

そんな市民の気持ちを無視するかのように、秀吉は京都を伏見の城下町にしようとして、大改造をし始めました。とはいいても、京都は都市としてすでに出来上がっていたところですから、すべてを改造してしまうようなことはしませんでした。

彼がやったのは、「お土居(どい)」という囲いを京都の周囲へ巡らして、所謂洛中と洛外とをはっきりと遮断してしまったことでした。

かつて桓武天皇が、羅城門を境として、その内側と外側とを分けたのと通じるものがあります。別の言い方をするとしたら、その不完全なところを埋めてしまおうとしたのかもしれません。桓武天皇の時の慌ただしい状態とは違ったのは 、秀吉の場合は、かなり現実的な計画であったらしいようですね。先ず何といっても狙いといえるのは、外敵が侵入しないようにということでしたが、その外には、東の暴れ川という異名もある鴨川と、西の紙屋川という河川の氾濫による市内の被害を避けるという目的です。これらは軍事的にも京都を守る外堀になるに違いなかったと思います。

周囲二十三キロにも及んだといわれる「お土居」も、今は北野神社と紙屋川の間に、ほんのわずか残っているだけになってしまいましたが、これまで度々京都の町づくりに関して登場してくる京都駅なども、実は南の「お土居」のあったところなのです。

やがて新京の中心として聚楽第が建造され、そこへ御陽成天皇を迎えて、盛大な宴を催したといいます。これで秀吉の権威は天皇によって認められたことになったのですが、ここは八年という短い期間で大地震に見舞われたこともあるのですが、やがて彼の手で破壊されてしまったのでした。その時の遺構が大徳寺に移築されているということは、すでに書きましたが、大阪にあった東本願寺を京都へ移したりして 、江戸時代はもとより、現代でも観光の拠点となっているほど、その後の京都の発展ということを考えた時には、どうしても欠かせないような貢献をしてきているはずなのですが、どうも秀吉に関する京都市民感情は、あまりよくないようなのです。その最大の理由は、どうも茶道の千利休を抹殺したやり方が、あまりにも残酷であったことが、大きく影響しているようですね。

秀吉の京都の町づくりは、新の天下統一を遂げた証として完成したかったのでしょうが、うたかの夢で終わってしまったようですね。しかしそれでも現代の人は、高台寺周辺の秀吉関連の施設へ、次々と訪れていることを考えると、大いに京都には貢献しつづけているように思えるのですが、どうでしょうか☆