知る世界 「桂川日記」(13)「京の怨霊神社」

歴史の中心となるところ・・・政治の中心地となる、朝廷のあった土地は、どうしても政争の場となることが多くなってしまいます。

そのために、勝者が生まれ敗者が生まれます。

そういう点で、京都というところは、最大の都市でしょう。

政争に敗れたり、犠牲になったりして、恨みを抱いたまま抹殺されてしまう者が多かったので、その霊を慰めようという動きも盛んになります。

本来、怨霊というのは、相手とまともに戦う機会が持てないまま、抹殺されてしまった者がなると言われています。正面からぶつかり合って敗れた場合は、本人も納得しているので怨霊化することはないと言われています。何といっても問題なのは、無念な思いが解消できないでいる場合です。

京都というところは、桓武天皇が遷都して以来、さまざまな権力者が登場しましたし、そのために幾多の権力闘争を繰り広げてきました。そのために、勝者となった者も、あまり言い気持ではいられません。敗者の恨みを、何とか解消することができないものかと考えます。権力者だけではなく、それを目撃してきた市民も、心情的に敗者への思いがあるものです。政争が激しければ激しいほど、それを傍から見つめていた市民には、敗れた者へのいたわりの気持ちが生まれるものです。彼らには、そういった霊を祭るということが、自然に身についていったようです。所謂御霊祭りということを、たえずやっているのは、京都が一番ではないかと思います。その分だけ、慰めなくてはならない霊が、如何に多いかを表しているとも言えるわけですが、もっとも時代が落ち着いていたと思われる平安京の時代でも、朝廷の御苑であった神泉苑では、絶えず怨霊の魂鎮めの行事が行われていたことが記されています。

現代では全国的に知られている、京都の祭りである「祇園祭り」も、正式には「御霊会(おんりょうえ)祇園祭り」と呼ばれているのです。

かつてわたくしは、交通公社から原稿を頼まれたことがありましたが、その時に京都をもっとアピールするために、京都には沢山の怨霊神社があるということを、もっと表に出したほうがいいと書いたことがあります。

それまで京都を宣伝するもといえば、もっぱら舞子さんだとか、大文字焼きといったものがほとんどで、華やかなものや表面的な雅をアピールするものが中心で、怨霊関係の神社が北野天満宮をはじめとして25か所もあるということは、ほとんど触れられないできました。確かに気味の悪いことかも知れませんが、昔はそんな気分の人が多かったかもしれませんが、もう21世紀の時代です。怨霊が多かったということは、それだけ歴史の中心地であったということの証拠で、観光客にとっても、雅だけではない見所のひとつとして、尋ねる人も多くなると思うのですがという論旨であったと思います。

怨霊神社のほとんどが、どこか沈み込んで静まり返っているところが好きなのです。そして更に、彼らが勝利者ではなく、敗者であるというところが、何とも惹きつけられてしまう理由なのです。

歴史は常に勝者によって語られ、記録されて、後世へ伝えられていくのですが、その陰にあって、語られ得ないままでいる闇の歴史というものを、表に出してやりたいものだと考えてしまいます。

わたくしが怨霊系の神社へ行くのは、あまり人が集まらずに、静かに霊と向かい合えるからでもあります。

変わり者なのかも知れません。

あなたも京都へ行く機会がありましたら、是非、一度はこんなところへ出向いて、彼らの熾烈な戦いの歴史に思いを馳せてみませんか。

「八所御霊」には、早良親王(さわらしんのう)、伊予親王(いよしんのう)、藤原吉子(ふじわらのきちこ)、橘逸勢(はやなり)、文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)、藤原広嗣(ひろつぐ)、吉備真備(きびのまきび)などという霊が祭られていますが、彼らがどんな人であったかは、どうぞお調べになられることを、お勧めいたします。

今回は、ちょっと違った観光コースのお話をしました。☆