知る世界 「桂川日記」(15)「現代京都事情」3

京都通いも、大分馴れてきました。

大学での講義をすることが目的ではあるのですが、ただ東京からそのためにだけ往復しているのは、あまりにももったいないので、かねてから取材でやって来たことのあるところですから、今回は仕事を一旦離れて、自由に、何にも縛られずに、京都という町に触れてみようと思うようになりました。

毎回、前日に京都へ入ると、前もって決めてきたところへ向うのですが、京都の交通の便というと、バスが主力です。駅前へ行けば、ほとんどの行き先を網羅していますから、まったく不便はありません。

次第に町の風景にも馴染んできましたから、その位置関係、スケールというものが、次第に頭に入ってきました。そんな訳で、車窓から町の風景を眺めていることが、楽しくもなってきました 。

碁盤状になっている町の仕分けも頭に入ってきたので、いつの間にか、さまざまな歴史を思い浮かべながら目的地へ向かうのですが、とにかく昔と大きく違っているのは、船岡山を中心に町が設計され、その中心に御所があると言われていたはずなのに、現在の京都は大分左京よりになってしまっているということです。歴史の後を辿る旅をする時には、まずそういった変化を、頭に置いていないと、歴史的な話も、大分理解に苦しむことになってしまいますし、楽しみも半減してしまうのではなおでしょうか 。

都がここに置かれていた平安時代の昔から、左京が中心で、高貴な方がほとんど御所を中心にして、その周辺に住み、役所に勤める官人・・・つまり役人たちは、遠いところから夜明け前に家を出て通ったといいます。左京あたりは、土地にしてもかなり高価になったということも記録にあったように思いますが、現代でも、やはり左京に繁華街が広がっています。どちらかと言うと、嵐山、渡月橋のある右京は、沈みがちかもしれませんが、静かさを求めるのであれば大変いいところで、わたくしの奉職している大学も、この桂川のほとりにあって、芸術を探求するには格好のところにあります。

昔の大物俳優も、この右京の嵐山あたりに住まいを構えたり、別荘を構えたりしていました。大雑把な言い方をしますと、閑静な右京、煩雑な左京ということができるかもしれません。

お伽草紙などに出てくる「一寸法師」も、最後は三条の大臣に拾われ、そのお姫さまと結婚することになりましたが、バスから眺めていて、(ああ、このあたりに大臣が、住んでいた屋敷があったのだな)などと、当時の特権階級の住んでいた土地の風景を、思い浮かべたりしています。

バスの停留所もほとんど何条、何条とアナウンスしてくれますから、そんな声を聞きながら、車窓から町の風景を眺めながら、歴史と重ね合わせて行くのです。それと有難いのは、そのバス停あたりへ行きますと、その周辺にある神社、仏閣、史跡などの紹介もしてくれますから、迂闊に乗り過ごしてしまうようなこともありませんせ、頭の中の京都地図を、次第に細かく描きつづけることに役立つのです。

何度も通いつづけながら、少しづつ、楽しみを増やしていくには、やはり歴史が積み重なっている京都というところは、最適の場ではないでしょうか。

まだまだこれから、これまでとは違った発見をしながら、楽しみも積み重ねていけるような気がいたします。

何の目的も持たずに、ただ漠然と、知らない町を散策するのも、何となく孤独感があって好きなのですが、少なくとも京都という町を楽しむのであったら、ちょっとは歴史を頭に置いてお出になることをお勧めいたします☆

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