知る世界 「桂川日記」(19)「賑わう古都の問題

このところ京都へ行く度に、季節の移り変わりで、花ガ咲き、木々に瑞々しい緑が甦ると、一気に観光客が押しかけて来るのを目にします。

京都駅などは、いつも修学旅行の学生たちと、熟年主婦たちのグループの数に負けない勢いで、外国からの観光客がやって来て、地図を頼りにバス乗り場へ向かっていきます。

私は大学の授業のない前日や、授業が終わった翌日には、これまで行きそびれていたところ、久しく行っていないところなどを、せっせとと歴訪することにしています。そんな時に、このところ大変目立つのが観光客の数です。

熟年主婦のグループには、ほとんどご主人の姿がないのは、実に特徴的な傾向ですが、修学旅行の学生たちも、昔と違って昨今は、気の合う者同士でグループ活動をするようで、学校で渡されたガイドのパンフレットを片手に、慌ただしく動き回っています。そんな中でちょっと気になるのは、仲間から外れているのでしょうか、寂しく、一人か二人で動いている学生がいることです。電車の中でも、一人だけ仲間からはずれてぽつんと立っていたり 、シートにすわっていたりする姿を見かける時です。どうして仲間と一緒にはいないのか、聞いてみたくなってしまいます。とにかくシーズン中は、町中もバスの中も、ぎっしりということがよくあります。そんな中で、殊更目立つことといえば、このところ一気に増えてきている、中国、韓国、インドの人々でしょう。もちろんこれまでどおりに、欧米からの来訪者はよく見かけます。リュックを背負い、地図を片手に、名所、旧跡を探して歩いています。

バスの中などは、各国語が入り乱れることがありますが、特に、中国、韓国の人の場合、邦人と見間違うほどで、中には日本語を上手に喋ったりされると、思わず勘違いしてしまうということもよくあるほどです。

京都のような古都が、このような形で賑わってくれることは、大変嬉しいことです。しかし良かった、良かったと手放しで喜んでいられないようなことにも、出くわしてしまうようになってきてしまいました。

それがたまたまであれば、それほど大きな問題だとは思わないのですが、いささかがっくりとせざるを得なくなるような光景に、出合ってしまうようになりました。観光地であれば、京都に限らず変わらざるを得ないのかも知れませんが、所謂地元のお土産屋さんが、それまで京都らしい伝統的な手工芸品などを作っては売っていたはずなのに、あっという間に・・・つまり観光客が多くなっていくに従って、店に出してある品の様子が変わっていってしまったことです。

伝統的な手工芸品などというものなどは、ほとんど姿を消していってしまいました。そんな店がかなりあって、このところがっくりとしてしまうことが多くなりました。どこへ行っても、形だけ京都であることを示す、廉価な小物が店の中を占拠しています。その営業相手は、言うまでもなく外国人でしょう。彼らにとっては、それさえも古都として知られた京都を訪れた記念なのかも知れませんが、それで京都というものが受け止められてしまうことは、大変残念な気がしてきます。まぁ、異国の方に関しては、そうした対応も我慢しなくてはならないかもしれません。しかし同じ日本人・・・その中でも熟年に達した人々が、古都の雰囲気を味わい、歴史の一端に触れながら、そこに根付いた庶民文化に触れる機会が失われていくという現実に直面したら、どんなに失望してしまうか・・・。想像するだけでも、ただただ残念に思えてなりません。

観光を盛んにして、日本の文化を通して国際的な交流が進められ、深められていくことは、大いに薦めたいことではあるのですが、その一方で、営業のために、これまでその土地に根付いた京都らしい手芸品などが姿を消して行ってしまうということは、残念でなりません。

長い伝統芸能、伝統的な文化などを、しっかりと守りながら、訪ねて来る異国の人に知って貰うための努力を、町中で積み重ねていくようにしたいものですが、現状を見つめると、そんな余裕はまったく見られません。

少しでも京都の良さを・・・古都の雰囲気を味わいたいと思っている私としては、ちょっと気になる昨今の京都ブームの状況です。ブームによってよってもたらされる町の変化を、どううけとめたらいいのかと、複雑な思いで報告しておくことにしました 。☆