知る世界 「桂川日記」(25)「京へ行く意味」

京都へ通うようになってから、大変目につくのは、国立博物館などでの展覧会が多いことです。

それも東京などで見損ってしまった企画と出会うことが多いので、大変有難いと思うことがよくありました。

どういうわけか、東京にいる間は、展覧会の種類があまりにも数が多いのと、その企画の種類が多いために、その選択に迷ってしまって、よほどのことがないと、重い腰を上げて博物館までは出かけて行きません。

しかし・・・。

何度か展覧会を見に通っているうちに、あることに気がつきました。東京ではさまざまな企画で、ある人、ある時代、ある流派などの作品を、保存されているところから集めてきて、まとめて展示されることが多いのですが、そういったことに慣れ過ぎてしまって、あることに気がつかないでいるということなのです。

通常その展示物の一つ一つを見たいと思ったら、それを保存しているところへ行かなくてはならないはずです。しかし大都会で暮らす人たちには、とてもそのようなゆとりはありません。そこでどうしても、いろいろな文化財をまとめて展示するという形になるのでしょうし、そうしたものを観賞するということになるのです。

確かに都会で暮らす多忙な人々にとっては、とても便利なことだと思いますし、有難いことだと思います。

ほとんどの人は、そのことについて、疑問を持つようなことはないでしょう。

ところが京都へ通うようになってから、ちょっと待てよという気持ちになってきました。

本来はその文化財が、実際に置かれているところで鑑賞することが、正しいのではないかということです。

現代人は、何かにつけて便利であることを優先して考えてしまいますが、それ故に忘れ去ってしまっているものがないだろうかということです。

一括展示というものは、便利さということではまったく異議はないのですが、果たしてそれが正しい芸術作品の鑑賞法なのであろうかと考えると、ちょっと待てよという気持ちになってしまうということなのです。

理由は簡単です。

それらはあるべきところにあって、意味があるのではないでしょうか。仮にそれが点々とあるべきところが変わってきたとしても、そのプロセスをたどることにも、歴史があり、意味があるように思えるのです。

改めて縁のできた京都というところを考えてみました。

京都は千年の都であったところです。その分だけ、豊かな文化を温存しつづけているところでもあるのです。せめてここへ通っている間は、文化財をその場へ行って鑑賞しようという決心をしたのです。

東京でよく鑑賞していた展覧会の芸術作品、文化財の数々が、かなりの数の神社、寺院などに保存されています。

これからも時間の許すかぎり、そんなところへ出かけて行って、じっくりとその作品を鑑賞したり、その作品と建物とのかかわりを考えてみたりしたいものだと、これまでの生活を大いに反省しているところです。

きっとこうした決心が覆られなかったら、これまで得られなかった京都での時間に、更に充実感が満たされて行くのではないかと思います。

今回は特に、一括展示に馴れてしまっている人のために、時には時間を作って、その文化の発生したところ、その芸術作品が日常展示されているところへ行って、鑑賞してみるということを 、お勧めしたくて書くことにしました。

多少でも、時間に余裕が出来ましたら、ゆったりと芸術作品や文化財を、その場へ行って鑑賞してみて下さい。

京都というところは・・・。

そういった場があまりにもありすぎて、実は、嬉しい悲鳴を上げているところなのですが・・・☆

源氏物語展の写真
狩野永徳展の写真