知る世界 「桂川日記」(26)「京と天皇」

千年の古都として、長い、長い年月の間、日本の歴史の中心として君臨してきた京都ですが、明治の徳川幕府の大政奉還からしばらくは、実に激動が襲いかかってきたようです。

徳川幕府が実権を握って政治を支配したとはいっても、300年程度のことです。京都というところは、古代の秦河勝以来、政権には深いかかわりを持っていた山城の国ですが、それが794年に長岡京から遷都して、平安京として君臨するようになってから、日本の政治の中心となる都として存在しつづけてきたところでした。

そんな中で天皇は、権力の中心的名存在ではありましたが、彼らはあくまでも、祭りごとがその努めの中心で、政治の実権はあくまでも朝廷の為政者たちに任せていたと思います。つまり実権は持っていなくても、臣民の精神的な支えとして存在しつづけていたわけです。そのようにして、あくまでも政治の実権者としては表に立たず、為政者の背後に存在しつづけていたことから、その分だけ神秘性がつきまとっていきました。

古代からと言われていたのは、そのためでもあるのでしょう。

そんな傾向が次第に増していったのは、武士が政治を取り仕切っていった鎌倉、室町、徳川幕府という年月の積み重ねでしょう。幕府の勢いが強く、その色合いが色濃く打ち出されてくればくるほど、陰に隠れがちな天皇という存在の神秘性は、じわじわと高まっていったように思えます。

1333年に鎌倉幕府が誕生してから、534年後に徳川幕府崩壊で消滅して、朝廷へ大政奉還した1967年から、一気に浮かび上がってきたのが、天皇という存在です。

それだけに、これから天皇はどこにいらしゃるのかということが問題になったのですが、京都の方々は当然これまでどおり京都御所に入らっしゃるのが自然であると考えていたに違いありません。

ところが大政奉還から一年後には、江戸が東京・・・つまり京都に対して東の京が決定して政府がここに作られることになると、にわかに天皇の居城の問題が持ち上がってきてしまったのでした。

これからあとは、天皇が東京へ行ったり、京都へ戻ったりを繰り返すことになるわけです。

1868年7月17日に江戸を東京とすることがきまってから、その年の8月27日に即位の礼が行われ、1868年9月20日に京を発って、東京へ向かったそうですが、警護に長州、土佐、備前、大州の四藩から総勢3300人という、物々しい数の人が付き添ったといいます。

それですべてが決着したかと言うと、とてもそんな状態ではなかったようですね。

東京と京都の間を、行ったり来たりといった状態が、数年つづきました。それはそうです。天皇は京都の御所で君臨しているということが、自然であったのですから、京都の人々からすれば、とても納得できるものではなかったはずです。

しかし1970年3月28日、天皇は東京城へ入って滞在します。そしてそこを皇城とすることになると、やがて10月24日に、皇后も東京へ移ることになるのです。

そしてその翌年1871年には、ついにすべての機関が東京へ移されてしまいました。そしてその翌年、1872年・・・明治5年5月には、天皇が京都へ戻っても、還幸といわず、行幸となったのでした。

ついに天皇をめぐる京都と東京の争いに決着がついたのですが、千年の歴史を持っている京都の人にとっては、あくまでも天皇を東京にお貸ししているだけという気持ちでいるはずです。

1888年・・・明治21年に宮殿が完成して、今日の宮城となるわけですが、依然として京都御所は存在しつづけていますし、天皇が千年の都へ、いつお帰りになってもいいといった気持で、じっと待ちかまえているのではないだら追うか。

京都通いをし始めてから、天皇が東京にいることに、不自然なものを感じるような気持ちになって来てしまったので、今回の話を書くことにしたのでした。

天皇は千年の都にいて、はじめて落ち着きを取り戻せるのではないだろうか。

そんな気がしているのですが・・・☆

高札の写真
皇居を望むの写真
二重橋と大手門の写真