知る世界 「桂川日記」(29)「平安京の広さ」
北の船岡山を基準にして平安京が設計されたということは、ほとんどの人が知っていることですが、都が出来た頃と現在の京都を重ね合わせると、とんでもなくなります。
最近は観光客がかなり押し掛けてきていますが、その人たちには、ほとんどそんな関心はないかもしれませんが、ちょっと京都のことを知っていようと思ったら、平安京がどうなっているのかぐらいは知っておきたいものです。
とにかく都の基準となる御所のあるところが、現在はほとんど鴨川に近い左京に寄ってしまっていて、愕然としてしまいます。
しかしほとんどの人は、そんなことには気がついていないのではないでしょうか。御所が左京に寄っているかどうかなどということは、それこそ空中からでも見てみないと、とても確認できないと思うのです。そこでわたしはある日、左京側は判ったので、一度右京を歩いて、都の範囲がどこまでであったのか、確かめてみようと考えたのです。
かつてのあったところへ行って、そこから右京の境界まで行ってみようということにしたのです。
千本今出川でバスを降りて、大極殿址へ行きました。かつては政治のきわめて重要な行事の行われたところで、御所の臍のようなところであったはずなのですが、今は小さな公園に、まるで場違いな印象でその大きな記念碑が建てられていました。
いささか不満を言えば、もうその間近まで住宅が建ってしまっているのです。せめて、こういった歴史的にきわめて重要であったところぐらいは、もうちょっと余裕を取って公園にしておいて欲しいものです。
それからわたしは散策気分で歩きました。
そして妙心寺のある花園まで歩きましたが、そのちょっと手前で、朱雀第二小学校の道路沿いの花壇の中に、「平安京西限」という石碑を見つけたのです。
何と、距離のあることか・・・。そのちょっと手前に「円町」というところがありましたが、位置的に行って、ここは所謂「宴の松原」というところなのではないかと思いました。当時の噂によれば、夜になると、ここに怪しい怨霊ともいえるものが出没したと言われていたところなのではないかと思うのです。そんなわけで、あまり聞こえの良くない名称ままではということで、「円町」と呼称を変えたのではないかと、勝手に考えたのでした。 これで如何に平安京が広かったことが、よく認識できたと思ったものです。
時にはこんな歴史体験旅行もしてみてはどうかと、提案方々報告することにしたのでした☆