知る世界 「桂川日記」(33)「日枝神社探訪」

京都へ通うようになって、もう三年を経過しました。今年はいよいよ四年目ということになるのですが、そんな中で、時間を見つけては、その現場へ行って取材をつづけて来たのですが、一度お話しておこうと思うことがあるのです。

大体、京都というところは長いこと天皇がいて、政治の中心地として存在しつづけていたのですが、その基礎作りをしたのは、何といっても桓武天皇が作った平安京が成立した時からです。 その時、天皇が真っ先に心がけたことは、新しい京へ魔性のものが入り込まないようにすることでした。

その拠点が、鬼門に存在する比叡山延暦寺です。そこには中国から密教という新しい宗教を持ち帰った最澄を置いて御所を護らせたのですが、この比叡山を守護するためにあったのが、琵琶湖畔に存在する日吉大社だったのです。ここには日枝山に鎮まっている大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀っていましたし、裏鬼門には松尾大社が配されています。

平安京では神仏習合が行われていましたから、いろいろなお寺が神さまを守護神として祀るということが、当たり前のように行われていましたから、最澄と平安京の二大巨人であると言われている空海が創建した、高野山金剛峯寺には荒神社が守護神として存在していました。

そんなわけで日吉大社は大変大事にされているのですが、ここには平安時代はもちろんですが、戦国時代も、さまざまな武将が参拝をしに通ってきていました。その中に徳川家康もいたのです。

やがて彼が江戸に城を作って活動の拠点とした時に、彼は京都の守りの固さを知ったのでしょうか。

江戸城の守りを固めるために、わざわざ京都の正確にいえば、滋賀県の日枝山から、大山咋神を勧請して、東京赤坂に日枝神社を創建したのです。その上に、鬼門には東の比叡山ということで、東叡山寛永寺を創り、裏鬼門には、増上寺を創りました。行ってみると、京都の守りを、そっくり江戸の・・・東京の守りに使ったということがよく判ります。

ふとそんなことを考えながら、史跡を訪ねてみるのは、たのしいことではありませんか。最近、歴女ということが言われることがあるのですが、こんな思いで旅をしてくれる人が多くなると、楽しいのですが、どうでしょうか☆

日吉大社前の写真
日枝神社参道の写真
日枝神社山門の写真