知る世界 「桂川日記」(37)「生の六道死の六道」

京都には東と西には、「生の六道」と「死の六道」とがあるのです。

東の方には鳥辺野という、あまりにも有名な風葬地がありましたし、その入口あたりには珍皇寺という寺があって、そのあたりを「死の六道」といっていたのでした。

それには理由がありました。

平安京の参議という交換である、小野篁が、朝議を終えたあとで、この珍皇寺の井戸から入って地獄へ赴き、閻魔大王の書記官として働き、夕刻になると、西の嵯峨野あたりから現世へ戻って来たと言います。つまり「生の六道」という訳です。

大覚寺から出たところに六道町というところが現在も残っていますし、近くの清涼寺には井戸も残されています。

平安京には、こうした不可思議なことが沢山語り残されていることのほかに、篁のような高官が不可思議な話を残しているのです。この他にも平安宮の目の前である大路で、百鬼夜行が目撃されているのです。この目撃者も朝廷の高官たちなのです。雅なイメージだけが広がりますが、平安時代には、こうした実に不可思議な話が沢山残っていますし、実際に不可思議なことが起こっていたようです。死んだ人が生き返ったという、戻り橋というところもありますし、その橋の下には鬼がすむと言われていましたが、そのあたりには有名な陰陽師の阿倍清明だ住んでいたということも有名です。

京都を訪ねる時には、是非、平安京が作られた時のスケールで歩いて下さい。現代の京都だけを考えては、面白いところには巡り合えませんよ☆

大覚寺の写真
六道の辻の写真
珍皇寺入口の写真
祇園御旅所の写真