知る世界 「桂川日記」(38)「怨霊神社」

京都には怨霊神社と言われるところが二十数社あると言われていますが、その代表的な崇道神社をはじめ北野天満宮、上御霊、下御霊神社などがあります。長いこと政治の中心地であったということもあって、権力者の間では激しい権力闘争が繰り広げられていたのでしょう。それに従って、怨霊も次々と生まれ、その霊を慰めなくてはならないことから、神社が作られるということがありました 。

権力者も庶民も心配であったのは、怨霊がもたらすであろう疫病の襲撃から逃れるということだったのですが、そのために京都では「御霊会祇園祭」が盛大に行われるのですが、今回はあまり一般的は知られていない怨霊神社のお話にしようと思います。

時は鳥羽天皇の頃ですが、その中宮である璋子が、大変いろいろと活発な人であったようで、白河天皇と関係があったと言われ、その結果誕生したのが、その後の崇徳天皇なのです。そのために鳥羽天皇は、彼を自分の子として認めずに冷たく扱いつづけたようで、崇徳天皇にとっては、実に気の毒な青春時代を過ごさなくてはなりませんでした。

そんなこともあって、ついに鳥羽上皇が思いがけない人を即位させ、崇徳天皇を退位させてしまいます。この時の不和からついに新院と呼ばれるようになった崇徳天皇は反乱を起こしてしまいした。しかし戦いには敗れれて、四国の讃岐へ流されることになってしまいました。彼は必至でその無実を訴えるのですが、許されるはずもありません。父の鳥羽上皇に対する積年の冷たい扱いに対する思いもあって、激しい抗議をしつづけて亡くなり、怨霊化したといいます。

当然ですが、その事情を知っている京都の町の人々は怨霊の襲撃を恐れました。そんなことを憂えた阿波内侍が、祇園にその御廟を作って祀りました。そんなことから、やがて中京区に白峰神社が作られて、そこに祀られるようになりました。

どろどろとした人間関係の狭間に生まれた怨霊でしたが、この崇徳天皇の霊を祀った神社は、現在は蹴鞠にかかわった神社であることから、サッカー選手などが信仰する神社として、訪ねる人も多くなっているようですね。

しかし雅の象徴である祇園にある御廟については、ほとんどの人が気がつかないのでしょう。通り過ぎて行ってしまいますが、是非通りかかったら、お参りして下さい。

今回はちょっと変わった怨霊神社を紹介することにいたしました。☆

崇徳天皇廟の写真
蹴鞠の神社の写真
白峰神社崇徳天皇碑の写真