知る世界 「桂川日記」(39)「京都の陰陽道」

京都を探索しているうちに、これまで気がつかなかったものが目につくようになりました。その一つが陰陽道の世界というものです。

それが平安京のものではなく、現代にも残っているのだということで、びっくりしてしまいました。拙著「幻視行 月の都、京都」(平安京をめぐる旅)の取材のために、いろいろと史跡をめぐりましたが、その間に気がついたのです。京都というところは、あの平安京がまだ生きつづけている町なのだということなのです。

一見、すべてが現代風になる中で、伝統行事を行っているとしか思えないのですが、決してそういうことではなく、ひっそりと平安京が生きつづけているといったほうがいいかもしれません。

今回、取り上げた神社は、ほとんど観光の場としては宣伝されてはいませんが、今でも熱心な信者の姿を見かけます。まさに陰陽道は今もいきつづけているのです。

平安京は比叡山の表鬼門、松尾大社の裏鬼門によって魔の侵入がないように護られていましたが、決してそれだけではなく、更に東西南北に置かれた、陰陽道による大将軍社が平安京の守りを固めていたのです。如何に桓武天皇が・・・いや、その重臣たちが、魔の侵入を恐れて、用心深く都を護るようにしていたかが判ります。

この陰陽道による守護に活躍したのが12神将ですが、それらを扱って活躍したのが陰陽師の安倍清明というわけです。

著書の中でも書いたのですが、この陰陽道という思想は、まえの平城京では受け入れられませんでした。どちらかというと、拒否されてしまったものぁも知れません。これは道教という思想によるもので、仏教思想が中心であった時代の風潮と逢わなかったことにもよりますが、何といっても左道という怪しい呪術を行ったのが、陰陽道だったからだと思います。それを将来の天皇とまで言われていた長屋王が行ったというので追及され、つに自害にまで追い込まれてしまったという事件が起こり、それがきっかけで兎に角陰陽道は拒否されてしまったのです。

事件としては、対立する藤原不比等の息子である武智麻呂、房作、麻呂という四兄弟が仕組んだたくらみであったという噂が広がり、やがて彼は長屋王の怨霊によって次々と倒されていってします。

そんなことがあって平城京では取り上げられなかった陰陽道は、平安京になって、その守護神としての役割を果たすようになったのでした。それが、今でも京都には生きつづけているのです。それが驚異の発見でした☆

紫野大将軍社の写真
大将軍八社拝殿の写真
東三条大将軍社の写真
藤森神社大将軍社の写真