知る世界 「旅雑記」(3)「怨霊の町雑感」

気候が安定してきて、気温も上がり、気分も浮き立つようになると、旅行へ出かけたくなります。

その行き先はいろいろとあるでしょうが、昨今にわかに人気が盛り上がっているのが京都なのだそうです。その詳しい理由は判りませんが、昔から京都は優美な雰囲気があって、女性には大変人気がある観光地ですが、しかし意外に京都についての知識は希薄のようで、びっくりするくらいなのです。

仮に観光旅行の目的で出かけるにしても、果たしてどのくらい京都のことを知ってお出かけになるのか、お聞きしてみたいくらいなのですが、そこで今回は、そのことについてお話をしたいと思っているのです。決してマイナスイメージを強調しようというわけではありません。むしろ今回のお話をお読みになって、却って今まで以上に、興味深いところに変わるかもしれないと、密かに期待しているくらなのですが・・・。

かつてわたしが取材で、たびたび京都へ出かけて行った頃のことなのですが、駅前に着いた観光バスから降りてきた中年のおばさんたちが、思わず不満そうな顔つきで、その日の感想を吐き出していたのです。

「京都、京都と言うけれど、お寺と神社ばかりでちっとも面白くない」

実に率直で単純な感想を吐き出していらっしゃいました。

確かに京都を表面的に眺めたらその通りなのですが、それだけでは、京都を見たことにはならないでしょう。かねてからわたしは、観光業者はもちろんですが、京都の役所も京都のアピールの仕方が型どおりで、そんなことがおばさんたちの失望にも通じるのだと思っていたのです。

つまり京都は舞妓さんと大文字焼き、祇園祭と優雅な雰囲気の面だけを強調していました。しかしそれでは、あくまでも京都の一面だけを強調しているだけで、本当の京都の姿については、まったく触れられてはいないのです。まして観光バスで、有名な神社仏閣を見て廻るだけでは、ほとんど京都に触れることも出来ないまま帰ることになってしまうでしょう。

あのおばさんたちが漏らした感想も、決して間違いではありません。旅行業者も、役所も、その程度のアピールで済ませてきているのですから・・・。それでも観光客はやって来るのだという、奢ったところがあるのだとしか、いいようがありません。

わたしは昔から・・・京都の暗部もどんどん明らかにしていくことが、却って京都の重みと言うものを増すことになるのにと言いつづけているのですが・・・。それは古来、ここが常に歴史の舞台であった証になるということなのです。

あなたは、京都に怨霊神社が25ぐらいはあるということはご存知だったでしょうか・・・。

「怨霊神社・・・?!」

そんなにびっくりなさることもありません。

古代の日本には、特に都のあったところでは、激しく政争が繰り広げられていて、そのために、無念な思いを抱きながら、志半ばで死んでいった人がかなりいるのです。そのために勝者は、敗者である彼らに復讐されるのを恐れて、怨霊を祭り鎮魂に心がけなくてはならなかったのです。

京都は優美なことばかりではなく、どろどろとした政治の世界であったし、物騒で、不安に満ち満ちた都市でもあったのです。権力者も、市民も、絶えず怨霊と化した人々を祭らなければならないほど、政争は激しいものであったのでした。その戦いが激しく繰り返されるということは、その度に恨みを残して死んでいった人も多いということなのです。

どうも役人も観光業者も、そのへんのことの捉え方に誤解があるようで、そんなことを喧伝しては、イメージダウンになってしまうとでも、思っているのでしょうか、とにかく隠そうとしているように思えてなりません。

あの夏の風物詩である祇園祭りにしても、実に雅な行事であるかのように紹介していますが、もともとは日本各地の怨霊を鎮めようというところから始められた行事だったはずなのです。

なんと言っても怨霊は、慰めてあげなくては、災いをもたらすかわからないという不安を抱かせていたので、当然のことかもしれません。そんなことから、京都の人は、古来怨霊とのお付き合いが多くて、というよりも付き合い方がお上手で、普通はみな嫌がるというのに、彼らは絶えず「御霊会(ごりょうえ)」を行っています。つまり歴史の古いところだけに、怨霊との付き合いに慣れているということなのかもしれません。右の写真は東寺の空海と西寺の守敏とが、呪力合戦を行ったと言われている神泉苑(しんせんえん)ですが、ここでは朝廷が盛大に怨霊を鎮めるための行事が、しばしば行われていたのです。大内裏の南東で、この神泉苑の北東の角には、「あははの辻」と言われる不可思議なところがあったといわれています。この道は「百鬼夜行」があったと、噂に高いところでして、きっと人は異様な集団が走り抜けるのに出くわして、思わず「あはは」と言葉にならない言葉を上げて、震えてしまったのでしょう。そんな様子が窺える名称でもあります。これらの他にも菅原道真を祭った北野天満宮がありますが、ここも怨霊神社であったということは、ご存知だったでしょうか・・・。彼は政争に破れて、九州の大宰府(だざいふ)へ左遷され、無念な思いを抱きながら他界してしまいましたが、彼はその後雷となって御所へ襲いかかり、政敵であった藤原氏を震え上がらせました。その結果、とにかく道真の霊を慰めるためにということから、神社を造り、彼の霊を祭った訳です。

こんなわけで京都には、一般的にはあまり馴染みがないかも知れませんが、歴史上かなり知られた人々・・・つまりいろいろと活躍をしていた人々の霊を祭った怨霊神社が、数多く存在しているのです。

下の写真は皇位を窺っているという疑いをもたれて捕まったものの、それに抗議して断食を行い、餓死してしまったといわれる早良親王(さわらしんのう)の怨霊を祭った崇道神社(すどうじんじゃ)ですが、彼の死後、皇位に就いた桓武天皇(かんむてんのう)の無事を祈って建てられたものですが、しかしちょっと不気味なのは、恋多き女とも噂されている、和泉式部(いずみしきぶ)など、高貴なご夫人たちも、叶わぬ思いを遂げようと、邪魔な者を除こうとして、ここで橋姫に呪いをかけてくれるよう願をかけに通ったといいます。右は鞍馬山の麓にある、貴船神社である。この他にも恨みを抱いた者が、密かに夜中に、呪いをかけてお百度参りをするために通ったりもしたといいます。この裏山の林には、五寸釘が打ち込まれた樹木が何本もあるのです。実に不気味なところでもあります。この他にも、京都には下の写真にあるように、有名な上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)、下御霊神社(しもごりょうじゃ)というものもあります。ここには古来無念な思いを残して死んだ多くの人々の霊が、数多く祭られています。

こんなわけで京都には怨霊が満ち満ちているわけなのです。こんなところで暮らすには、それなりに覚悟がいるものです。古来市民の方は怨霊・・・御霊とどうしたら暮らしていけるかと、切実な問題として考えていたに違いありません。そこで彼らは、怨霊となってしまった霊魂を慰めてやろうという結論に達したわけです。京都では御霊会(ごりょうえ)というものが、絶えず催されるのは、そのためです。

こんなお話を敢えて書いたのは、決して京都のイメージダウンをしたいからなどという魂胆などではありません。すでに書きましたが、観光客たちが、あまりにも京都がどんなところかということも知らず、表面的な説明しか聞かされずにやって来るということが判ったので、もっともっと興味深い歴史の地なのだということをお知らせしたかったのです。決してこれはイメージダウンになるどころか、むしろ訪れる人に、新たな興味と関心を惹起することになるのではないかと思うのですが・・・☆