知る世界 「旅雑記」(7)「羽黒山探訪」

今回は十和田湖畔に二泊して、その周辺を巡って散策をしたり、遊覧船で湖からの眺めを楽しんだりして、前回取材でやって来た時には味わえなかった楽しみを持ちましたが、それからわたしたち夫婦は、汽車を乗り継ぎながら鶴岡へ行き、そこで一泊して、先ず羽黒山へ行ったのでした。

ここへは小説の「宇宙皇子」を執筆中に、担当の編集長と一緒に取材したことがありました。関西方面の小角を頂点とした修験者に対して、羽黒山修験者の開祖である、蜂子皇子・・・崇峻天皇の子でありながら、異形の子であったことから流されてしまった皇子の墓もあり、前回同様参拝することにしました。しかし何といってもここで見逃せないのは、東北で唯一の国宝となっている、五重の塔でしょう。先年台風に見舞われて、かなり損傷してしまったのですが、その修復も終わっていて、重厚で、どっしりとして、静かに時の流れに磨かれてきた風格さえも感じさせていました。殊更装飾もなく、素朴な佇まいは、まさに感動よ再びといった雰囲気でした。ここへは何度来てもいいなぁと、しみじみ思いましたが、はじめてやって来た妻などは、なおさらのことでした。是非、もう一度来てみたいと、熱っぽく語っていたものです。

昨今は文化財を保存するという建前から、どんどん新し くしてしまうことが多いのですが、いささか残念に思うことがあります。文化財を保存したり復刻したりして、後世に伝えるということは大変大事なことではあるのですが、すべて真新しくなってしまうというのは、何とも残念なことでもあります。古いものが朽ち果てながら、なお素材の生命力で生きつづけているといった姿の魅力を楽しみたいのですが、これはわたしの感傷にすぎないのでしょうか・・・。時代の重みを感じたり、幾星霜生きつづけた歴史を感じたいのです。そんなわけで、ここの五重の塔は、補修はされてはいたものの、前回見た時と同じように、充分にわたしの気分を満足させてくれました。思わず塔の下あたりに佇んで、しばし古代を追体験することができたことは、決してお金では買えない 、貴重なひと時でした。夫婦共々、大いに古代を夢想して楽しんできたのでした。

その翌日は、早朝のバスで湯殿山参拝へ出かけました。山自体がご神体ですが、そこには山頂から、山全体を潤すように湯が流れ出ていますので、参拝者は、みな裸足で神の山を登ることになります。実に変わった参拝のしかたで、妻にとっては貴重な体験だったようでした。

二日間という、きわめて短時間ではありましたが、羽黒山、湯殿山は、かなりゆったりと巡れたような気がしたのでした。十和田湖畔での二日間といい、かなり精神的な充足感が得られましたが、そんな中でも、特に精神的に開放され、洗われるような気持ちになりながら歩いたのは、奥入瀬渓流を下流から上流へと歩いたことでした。その日は多少雨模様でしたが、そんな中を渓流に沿って歩いたのですが、十和田湖から流れ出て来た清流が、黙々と歩く人達の心の疲れを、きっと洗い流していくのだろうと思ったりしたものです。

何度かの十和田湖の爆発によって、今の状態に落ち着いたようですが、そんな歴史を背景にして、わたしは「宇宙皇子」の50巻という長い物語のラストを、この十和田湖周辺に決めたのでした。いろいろと調べていくうちに、十三湊あたりを拠点とした、古来、安東一族をはじめ、蝦夷も相当の勢力を誇っていたし、古来の安東一族をはじめ、蝦夷も相当の勢力を誇っていたし、朝鮮半島からも、日本海を越えて、かなり東北あたりへもやって来る者がいたらしいですことを知ったからでした。そうしたさまざまな者が入り混じりながら、陸奥は形成されていったのです。

都からは蔑まれながら、じわじわとその基礎を築いていった歴史の中に、我が主人公の「宇宙皇子」は、はるばる飛鳥の里からやって来て、先住民たちの中に飛び込み、彼らと交流しながら、やがて討伐のために遠征して来た朝廷軍に、立ち向かっていくのです。やがて使命を果たし終えた彼は、ようやく結ばれた、愛する各務と共に、十和田湖が大爆発する中を天上へ帰って行ったのでした。そんな彼らの目の中には、きっと十和田湖やその周辺の美しい自然に満ち満ちた景観が、飛び込んでいたに違いありません。これまでの熱い思い出と共に、きっと二人は地上でのさまざまな思いを心の内に焼き付けて行ったことでしょう。

そんなことなどを想像しながら、奥入瀬渓流を散策したり十和田湖を、遊覧したものでした。いつも都会の喧騒の中に身を置いていて、心休まないわたしたちは、しばし奥入瀬の人でいたいと思ったのでした☆

五重塔の写真
湯殿山参道の写真
湯十和田湖畔の写真
十和田プリンスの写真
十和田湖の夕陽の写真