知る世界 「旅雑記」(8)「日本の楊貴妃伝説」

前回は楊貴妃の生地である、中国を取材した時のお話を書きましたが、実はこの日本にも、彼女の伝説が伝えられているところがあるので、そのことについて書こうと思います 。まさか、そんなことがあるはずはないと思われるかもしれませんが、確かにそんなところは実在するのです。

これはS出版社の主催する講演会で、広島、山口県を回った時に、予定を終えた時に担当者から、どこか行きたいところがあったら言って下さいという申し出があったのです。そこでわたしは、かつて楊貴妃伝説を追って中国を取材した時に、事前に読んでいた本の中に、わが国にも彼女にまつわるものが伝わっているものを収めてある寺があり、そこには楊貴妃の墓まであるということが書かれていたのを思い出したのです。直ぐにタクシーを呼んで、思いがけないもののあるところへ向かったのでした。

唐王朝の末期のことです。

安禄山の乱が起こり、その兵士たちに追い詰められた楊貴妃は、馬嵬(ばかい)というところで死んだことになっているのですが、実は逃げ延びて海を渡り、本州の最西北端に位置する、山口県の向津具(むかつく)半島の北に位置する油谷湾(ゆやわん)の油谷へ着いたというのです。たしかに「長恨歌」(ちょうごんか)では楊貴妃の死をはっきりとは描いていないのですから、死亡したということは断定できません。そんなところから、彼女の身代わりが死んだのであって、楊貴妃はこの日本の油谷へ辿り着いたということになったのでしょう。真偽のほどは判りませんが、なんとなく受け入れてしまいたくなってしまうお話です。

絶世の美女だから、なお更死なせたくなかったのでしょうね。そんなロマンを夢見た人々によって、楊貴妃日本亡命伝説が生まれたわけです。

危機に瀕した彼女を救ったのは、もちろん安禄山軍の指揮官で、彼はその部下である女性を身代わりとして、楊貴妃を逃したというのです。歴史を背景にした、海を隔てた大ロマンです。

山口県の向津具半島の北端にある、二尊院(にそんいん)という寺の墓地に、三基の五輪塔とその周囲に小石を積んだ塔があるのですが、その中央のひときわ大きい石塔が楊貴妃の墓だと言われているのです。もちろん確証のある話ではありませんので、あまり大真面目にはならないで、ちょっとした話題の一つだと思ってお読み頂きたいのですが、頭から否定してしまっては、まったくロマンを夢見ることはできないでしょう。

実話主義の時代では、ちょっと無理な話かも知れませんが、少しでも気持ちにゆとりを持って、ロマンを夢見ることができれば、楽しみが倍増すると思うのですが・・・取り敢えず、ロマンを楽しまれる方に話を進めましょう。

山口県の二尊院というお寺は、平安時代の代表的な宗教家である、天台宗の最澄が創建したと伝えられていますが、ここには楊貴妃の墓があるだけでなく、更にロマンを掻き立てるようなものが残されているのです。

中国から逃れた楊貴妃を思って、玄宗皇帝が学僧に託して送ってきたものが、この寺にあると言われているのですが、寺名の二尊は・・・釈迦如来像、阿弥陀如来像の二体です。しかしこのことについては、諸説あって大混乱になるのです 。

楊貴妃はここへ漂着して間もなく亡くなってしまいましたが、彼女のことが忘れられない玄宗皇帝は、二体の仏像を刻ませて学僧に託して日本へ持って行かせたのですが、果たして彼女はどこへ着いたのかまったく判りません。そこで使者はその二体の仏像を、京都の清涼寺(せいりょうじ)へ預けたといいます。その仏像の様式が、所謂清涼寺式といわれるものだったというのが手がかりでした。この清涼寺というのは、京都の小倉山の東麓にある寺で、嵯峨天皇の皇子である源融(みなもとのとおる)の別荘であったところを寺としたところです。その棲霞寺の一部に存在していた阿弥陀堂が 、当時の遺構だと言われていますが、やがてそこが吸収されて清涼寺と呼ばれるようになったと言われるのですが、唐の使者はやがて油谷の二尊院を知って、その仏像の複製を作って、清涼寺と新旧の仏像を、一体づつ分けたと伝えるものがあります。ところがこの清涼寺の釈迦如来像は大変有名なのですが、玄宗皇帝と楊貴妃の故事については、まったく伝わっていないというのです。そこでそれまで言われていた清涼寺というのは、実は京都の二尊院のことなのではないかという説が生まれたのです。そんなことから、後に向津具の者は京都に対してその返還を求めることになったのですが、なかなかそれには応じないのです。そこで向津具側は朝廷にまで訴え、その結果二体の仏像の摸刻を作って、京都の二尊院、向津具の二尊院で、本物と模刻を一体づつ持つことになったと言うことですが、ここにも玄宗皇帝と楊貴妃の故事については、何も残っていないようで、真偽のほどは確かではありません。

しかし楊貴妃伝説はそれだけでは終わらないのです。更に別の伝説が残っているのです。それは清涼寺、二尊院と比べると、もっと伝説の色濃い話が残っています。泉涌寺(せんゆうじ)というところなのですが、その観音堂に安置されている聖観音像こそが、楊貴妃伝説を色濃く漂わせているのだと言われているのです。豪華な妃冠をいただき、片手に花を持っていて、優しい眼差しと温和な表情が感じられます。 寺伝によると、泉涌寺の僧、湛海(たんかい)が中国へ留学した時に持ち帰ったというのですが、あまりにも美しかったので、後に観音堂へ安置され、百年に一度だけしか扉を開かないという秘仏になったといいます。これは別称、楊貴妃観音ということが言われていますが、玄宗皇帝が貴妃の死を悲しんで作らせたものだといいますが、果たしてこれも確かなことかどうかは判りません。泉涌寺がもともと仙遊寺と呼ばれていたところから、白楽天が「長恨歌」を書く動機となったといわれている中国の仙遊寺を重ね合わせて、生まれた伝説なのかもしれませんね。

さてさてそれにしても中国の絶世の美女は、日本の歴史愛好家ばかりでなく、政治家をも巻き込んでしまったようですね。その壮大なロマンは、もう二度と体感する時は訪れないでしょう。しかし山口県、京都市へ行った時には、是非、それぞれ由緒正しき寺を訪ねて、楊貴妃ゆかりの仏像と対面してみてはどうでしょう。

厳しい詮索は置いて、しばし伝説の世界で遊んでみては如何でしょうか・・・☆

楊貴妃漂着の油谷湾の写真
山口県二尊院の写真
日本の楊貴妃の墓前での写真