知る世界 「旅雑記」(11)「シギラの月と宮古島」(1)
小説の取材では、とにかくいろいろなところへ行きました。各地での講演会へも呼ばれたり、イベントへ呼ばれたりもしました。しかし拙著の「シギラの月」では、これまでの場合とはちょっと趣の違った体験をいたしました。
大体お話の発端が、それまであまり知られていなかった、沖縄・・・その中でも特に未知であった宮古島の歴史発掘をしてくれないかという話が持ち込まれてきたので、わたしは二つ返事で承知したのです。何といってもその話には大変興味深いものがあったので、受けることにしたのです。
作家になってから受けた仕事では、まったく経験したことのない話だし、大分様子の違うものであったからでした。
その頃から沖縄サミットが開かれるというイベントも発表されたことから、その大きな会議へ集る要人たちや、記者たちに、宮古島はもちろんのこと、沖縄についても知って貰うために、その歴史発掘を活かしたいものだという要望があったのです。そのために小説を出版した後で、映画化しようという機運が高まっていきました。
「シギラの月」は時間の経過と共に大きく膨らんで、そのアピールのために、わたしが先頭に立って、行政機関、マスコミ、民放という民間企業を巡って協力を要請して歩くことになりました。
関係者も映画化を実現しようという意欲が高まっていきましたから、広報活動はもちろんのこと、映画の企画書執筆かなり慌しく動き回っていました。そんな中でちょっと生き抜きになったのは、思いがけないイベントの企画でした。あまり世間的には知られていない宮古島を、いろいろな形でアピールしているわたしの努力に応えようというので、宮古島のすべての市町村長をはじめ新聞、放送局の社長、ホテルを経営するオーナーのみなさんが集って、わたしの激励会をして下さったことでした。それが今回ご紹介する写真です。
シギラ浜がある上野村(うえのそん)村長が代表して、宮古島からの感謝状を贈って下さったり、珊瑚の贈り物がありましたが、びっくりしたのは、映画化が実現した暁には、シギラ浜へ月とシギラ・・・女神をモチーフとした銅像を建てて、恋人たちが日本のあちこちから集って貰いたいという願を託して、ホテルのオーナーがそのデザインをアメリカ在住のデザイナーに作品を委嘱して下さったという発表もあたりで、パーテイは大いに盛り上がりました。
宮古島の舞踊団の参加もあって、会場一杯に宮古島の雰囲気が溢れ返りました。
しかしそんな中でわたしを感激させたのは、あの小説を読んだ女子高校生が、壇上でその感想文を読み上げてくれたことでした。宮古島に生まれた若者が、その誇りを持って、圧迫してくる権力者に戦いを挑み、必死で生き必死で生きていく姿に感動したということが語られましたが、まさにわたしの意図は果たされたように思ったものです。
彼女も大変真摯な人でしたが、こういった若い人に是非とも読んで貰いたいと思っていたので、大変心強く感じ入ったのでした。
期待感はいやが上にも高まっていったのですが、残念なことに「シギラの月」は、とうとう映画化の機会を得られないまま終わってしまったのでした。
テレビ、映画会社との折衝役はわたしの担当ではありませんでしたので、その経緯については、詳しいことを知りませんでしたが、どうやら経済的な裏づけが、思うように得られなかったことが原因であったように思われます。何と言っても、まだバブルがはじけた後遺症に苦しんでいた時代ですから、いささか巡り合わせが悪かったかなと、無念な思いを噛み締めたのですが・・・。 また再びその機会が得られる時が訪れることを祈っているところです。
その後テレビの実写作品として候補に上り、何度か宮古島も訪れたりしましたが、その度に映像化の機会を得ながらどうしても願を達成することはできずに終わってしまったのでした。わたし以外にもその意図を汲んで下さって、協力をして下さった多くのみなさんの気持ちを思うと、無念な思いは今でも残りつづけています。いつかこの企画が実現できる時が訪れることを、心密かに祈りつづけたいものです。
今はそんな経緯を一切忘れて、つまり仕事は離れて、ハワイへ行った時に感じた開放感を味わい、静かで、のんびりとした癒しを求めて、再び宮古島へ行ってみたいなと思っているところです。
沖縄本島から更に300キロも先にある宮古島。その美しい珊瑚の海を見詰めながら、遠い昔の歴史を追っていると、中国とのかかわり、台湾とのかかわり、海賊の出没、東南アジアとのかかわりと、さまざまな近隣諸国との交流があって、実に変化があって活気づいていた宮古島の在りし日が彷彿としてきます。
ついこんな歴史を辿りながら、壮大な海洋ロマンを夢見てしまうのは、わたしだけではないだろうと思います☆
(旧HPから起こした原稿ですが、一部加筆、訂正いたしました)