知る世界 「旅雑記」(12)「シギラと月と宮古島」(2)

前回では、さまざまなお膳立てが出来たところで行われたパーティの様子を、まっ先に紹介してしまいましたが、今回は話が前後してしまいますが、それ以前の活動を中心にお話ししようと思います。

本の出版というと、一般的に出版社から依頼があって、それから原稿を執筆するというのが通常ですが、暫く前から 出版という形には、いろいろな形で行われるようになってきました。わたしの「シギラの月」という小説は、そんな一つとして実現したものなのです。今回はそんなお話をしたいと思います。

それは大長編小説の「宇宙皇子(うつのみこ)」が完結して、ちょっと一息ついた頃のことでした。

若い頃「天馬」というラジオドラマの同人誌で、共に執筆活動をしていた友人で、関西のテレビ局のプロデゥサーとなり、やがて東京の外資系代理店の企画室長となって活躍した友人から、南の島のプロジェクトに参加してくれないかという誘いがあったのが始まりでした。

何か新鮮な意図を感じて、即座に承諾いたしました。

そこで聞いたのは、すでに存在しているY社の、沖縄の宮古島のホテルを中心とした文化村の開発を推進するために、少しでもその認知を広めたいため、そのホテルで文化講演会を立ち上げたいということでした。もちろんこれまでわたしがかかわってきた仕事とは違ったお話で、大変興味深いお話でした。もちろん拒否する理由はないところから、わたしはそのメンバーとして参加を承知したのでした。沖縄の宮古島と言っても、今のように南の島に脚光が当たる時代ではありませんでしたから、そこを拠点に事業を展開しようとすると、大変なエネルギーが必要になります。そこでY社は、そのプロジェクトの立ち上げを代理店に依頼したわけです。 しかしY社が苦心しているように、そのキャンペーンを委託されたわたしたちも、それを具現することは、かなり困難なことでした。試行錯誤の連続で、どういう戦略で企画を推し進めるかと言うことでは、案が出る度に一進一退しました。

結局、あまり知られていない宮古島の歴史を発掘して、それを小説化して、少しでも宮古島に関心を持ってもらおうということになったのです。そして更にその小説を基にして映像を作ろうということになったのでした。

そんなことから、小説を書くために、まず歴史発掘をしようということになったのです。

 

わたしはスタッフと共に、毎月宮古島まで飛ぶことになりました。

余談ですが、羽田から宮古空港までの三時間という飛行時間が、わたしたちにとっては、大変な苦行となってしまったのでした。実はその頃、わたしとスタッフは、揃ってヘビースモーカーだったのです。わずか三時間という禁煙の時間が、とにかく耐えられないもので、宮古島の空港へ到着すると、一斉にロビーまで走り、喫煙所で一服するのが習慣になってしまったのでした。

誤解のないように、お断りしておきますが、現在のわたしは、まったく禁煙しておりますので、記述にありますような光景にはなりません。まさにある日のわたしたちの光景であったもので、懐かしい一コマということができるでしょう 。

ホテルの部屋へ落ち着くと、早速取材を開始したのですが、レンタカーを駆使して、まず地元の方からの取材を始めました。とにかく手がかりになるような情報を、少しでも沢山集めておこうということだったのです。

先ず真っ先に浜の名ともなっている、(シギラ)という者の伝説を知っているという方の取材から始めたのですが、確かに興味深い話で、わたしは大いに乗りました。しかし不確かなこともあるので、やはり何といっても取材して見なくてはなりません。

わたしたちは地元の歴史を民話風にまとめていらっしゃる方を訪ねて、古来、その(シギラ浜)にまつわる不可思議な現象があるという話を聞き出しました。

次第に伝説の調査の手がかりが生まれてきたところで、学者はどう捉えているのかということになり、先ず地元の歴史博物館を訪ねることにしたのでした。

これからいろいろと調査をするので、その参考になるようなことをお聞きするので、表敬訪問をかねて、館長による宮古島についてのレクチャーを受け、これからの協力をお願いすることにしたのでした。ところがこの館長は大変熱心な方で、事務室の黒板を使って、数時間にわってさまざまな講義をしてくれたのでした。これにはスタッフ一同びっくりしてしまいましたが、これからの作業の進行のためには、大いに力強いものになると確信したのでした。

この後からは行政の力も借りなくてはならないことが、いろいろとあるというので、(シギラ浜)のある上野村(うえのそん)の村長を表敬訪問、そして島で一番大きな市である、平良市(ひららし)市長の表敬訪問を行って、取材の趣旨を伝えて協力を要請。快諾を得たのでした。

いよいよこれから、地元の人を除いたらほとんど挑戦していないと思われる宮古島の歴史発掘作業は、まるでハワイへ来たのではないかと思わせるような、温暖な宮古島での歴史発掘作業は、極めて快適な気分で始まりました。

いよいよこ女性スタッフの運転するレンタカーで、とにかく行ける所へは転々と取材をして行ったのでした。

取材は月に一回、ほぼ一週間単位で行われました。

とにかく必要と思われるところは、無駄と思われても、面倒くさがらないで行ってみようという姿勢でしたから、食事の時間を除いて、一回の取材日数である一週間という時間を有効に使おうということで、精力的な作業をつづけていったのでした。

これまでやってきた、本土の歴史とはまったく違った世界があったということが、取材する度に判りました。

この宮古島は沖縄本島からも300キロも離れているところから、沖縄本島が中国の影響を色濃く受けているのに対して、この宮古島はどちらかというと東南アジアの影響を受けていることがはっきりとしてきました。博物館長に確認を取ったところ、やはりその印象は確かで、「ここは東南アジア文化圏です」ということでした。沖縄本島の中国文化圏とは、300キロの海を隔ててはっきりと違うのです。もちろん時代の経過に従って、中国の支配と影響を受けましたから、それほど違和感はありませんが、とにかく本土の歴史に馴染んでいるわたしには、取材で得る知識は、実に興味深いことばかりでした。

船を出して、宮古島の本島ばかりでなく、池間島、伊良部島、来間島、平間島、大神島、多良間島、下地島、水納島という八つの群島のほとんどの島を探ねたりしました。

時には陸上ばかりでなく、島を海側から見てみたいということから、船で一周したこともありました。

調査したこと、判ったことは、一々宮古島の地図へ書き込んで行きました。島の全体像を掴むためにも、それは大いに役立ったと思っています。そうでもしないと、これまでほとんど島についての知識がなかったので、なかなか頭にインプットされてこないのです。調査をしては地図に書き込み、それをホテルで整理しながら、次の取材地を決めて行ったのです。

取材の合間に、美しい海の景観も楽しみましたが、実に寛げる、南海の楽園でした。少しでも多くの方にお勧めしたいところです。

とにかくこうして、未知の土地へ行って、そこの歴史を掘り起こしていくという作業が、如何に楽しいことであるか、この時大いに味わったものでした☆

宮古島の虹の写真
書き込みのある地図の画像
平良市博物館館長との写真
博物館内での写真