知る世界 「旅雑記」(15)「三太郎の旅」

古典的な童話に、「三太郎」というものがありますね。「桃太郎」「金太郎」「浦島太郎」という、よく親しまれた御伽噺の三大物語の主人公の名に、「太郎」という名がつけられていたことから言われていることです。

昨今の子供は、こんな古典的な物語を聞いて眠るなどということはないでしょうが、少なくともわたしたちの小さな頃は、当たり前のように親から聞かされたものでしたが、わたくしがこの「三太郎物語」に、注目し始めたのは中年になった頃からのことでした。

仕事が歴史に関係のある素材を取り上げるようになった頃から、どうも引っかかってきて、無視しているわけにはいかなくなってしまったのです。その中でも「桃太郎」は特別でした。

すでに「桃太郎シンポジューム」については、このHP上でお話したことがありましたが、今回はちょっと違った視点から書こうと思います。

桃太郎の話というのは、かなり史実に裏付けられているところがあるということは、すでに書きましたが、彼の主舞台が岡山だったことから、その出身地も岡山だと勘違いしていらっしゃる方が多いようですね。ところが歴史とのすりあわせをしていると、どうしても、奈良県ということになるのです。わたしは「宇宙皇子」の中で吉備国にいる「温羅」(うら)という鬼と、妖術を駆使して戦う話を書きましたので、岡山には何度も取材旅行をしましたし、その後映画のPRのために出かけたり、航空機の会社の機内誌の原稿を書いたり、新聞社の主催する講演にも出かけたりしましたので、岡山の桃太郎にまつわる史跡はほとんど巡っているのですが、史実とすり合わせていくにつれて 、主人公の出身地は、岡山ではなく、奈良県の橿原にある田原本町が出生地であるということになっていってしまうのです。そうなると桃太郎のモデルとなった人は、必然とはっきりとしていきます。実は孝霊天皇(こうれいてんのう)の子で、五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)という方です。

まだどちらかというと、神話の時代に近くなってしまうのですが、大和の近隣に勢力を張っている吉備国は、やがて九州まで勢力を広げようとしていた朝廷にとっては、極めて目障りな存在でした。恐らくこの吉備国を討たなくては、とても全国制覇などということは夢のまた夢になってしまいます。

この頃朝廷は大和国にありましたが、吉備国は強力な武力を持っていて、無視することができないばかりか、下手をすると権力を奪われかねない勢いを持っていました。そうでなくてもやがて九州までも征服しようとしていた朝廷にとっては、その途中に厄介な存在として勢力を誇っていました。いつかは激突しなくてはならないのですが、実は吉備国と比べると大和の戦力がかなり劣っていたし、遅れていたのです。琵琶湖周辺にはかなりの数のタタラ・・・製鉄所があるのですが、あまり良質といえる砂鉄が採れず、太刀などの武具がもろいのです。それに対して吉備のそれは、美作(みまさか)という良質の鉄の生産地を有していたので、中国地方の強国にまで成長してきていました。

そんな事情があったのですが、やがて各地の平定を具現するために、朝廷は四道将軍というものを任命して、北陸道、東海道、丹波道、西道へ兵士を送り、朝廷の勢いを浸透させようとしたのです。その西道の将軍として指名されたのが、五十狭芹彦命だったわけです。

この西道の最大の難所が吉備国だったのです。しかもそこには鬼ノ城というところに拠点を構えた、温羅(うら)という鬼がいて、吉備国の者さえも恐れていたということでした。五十狭芹彦命は、この温羅と戦うことになったのですが、つまりこれが桃太郎の原点なのです。

五十狭芹彦命が拠点を構えたのが、吉備の中山というところでしたが、そこからほぼ八キロほど離れたところにあったのが、温羅が指揮を執る鬼ノ城の山だったのです。右の写真は五十狭芹彦命が陣を張った、中山で、今は吉備津彦神社のあるところですが、桃太郎の話では、鬼が島に敵がいると書かれています。これでは海はどうなるのか・・・、心配はいりません。古い古い時代では、今田園として広がっているところは、入り江だったのです。そこには大小さまざまな島が点在しておりました。そんな中で、この温羅のいる島と五十狭芹彦命の中山は、突出した島であり、山だったのです。お伽噺だからといって、決していい加減な話ではないということなのです。

この二つの山の間で、朝廷軍と鬼といわれる温羅が戦うのですが、五十狭芹彦命はここで、お伽噺に出てくる犬、猿、雉に匹敵する部下さえも従えることになるのです。そして桃太郎はやがて激烈な戦いを制して、金、銀、財宝・・・玉を持って凱旋するのですが、この戦利品を分析しますと、ますます納得してしまいます。

ちょっと面倒な話になりますが、金銀というのは、いい材質の鉄を得たということですが、最後の「玉」も、きわめて大事なものです。 「玉」というのは魂のことをさしますが、中国山脈を越えれば、直ぐに出雲国だったところから、かつて大和朝廷に制圧されてしまった恨みを持っているはずの彼らと、同じように大和朝廷にはいい気持ちのない吉備国は、その魂を得て勢いを増してきているのだということが、盛んに言われていたのです。桃太郎が凱旋する時、金銀財宝・・・玉を得て帰ってきたと言うのは、史実にある大和と出雲の確執までも推測させることなのです。

史実ではその後五十狭芹彦命は吉備にのこり、やがて吉備津彦と呼ばれるようになりました。

わたしはかつて、「キビツヒコ」(上下)という小説を書いた時、NHKテレビの「歴史発見」という番組が、この小説を基にした構成で放送されました。わたしもコメンテーターとして呼ばれて映像で構成された「キビツヒコ」を見たわけですが、特別抗議の電話もなかったというデレクターから連絡がありました。

それにしてもかつて太平洋戦争・・・第二次世界大戦の折には、鬼が島の征伐という内容からアメリカの打倒という目的のために、随分「桃太郎」は軍人たちによって利用されてしまいました。大変残念なことです。もう二度と子供の世界を、ゆがめて残すことだけはしたくないものです。

そんなことよりも、ツアーでも組んで、奈良から岡山へと、桃太郎の遠征の跡でも辿ってみたいものですね。

きっと「三太郎」は、日本の童話として民話の古典として残っていくでしょうが、わたしはその中でも、特に「桃太郎」については、日本の歴史にもかかわりがあるところから、これからも肩入れしていきたいお話です☆

写真の山は、五十狭芹彦命・・・桃太郎が立てこもって、鬼と戦った吉備の中山です。



これは旧HPで公開したものに加筆、訂正したものです。

吉備路案内の写真
「吉備中山の写真