知る世界 「旅雑記」(16)「蘇我、物部、それぞれの事情

もう大分前のことになりますが、古代の権力者である蘇我馬子(そがのうまこ)の屋敷跡らしい遺跡が、発掘されたというニュースがありました。何を今さらという気にもなりますが、古代とはいっても、結構現代的な問題が潜んでいるのではないかと思うことがあるので、今回はその馬子とライバルにあった、権力者の物部守屋(ものべのもりや)にかかわるお話にしました。

古代の大戦乱と言えば、天智天皇の死後、その子大友皇子と、皇弟大海人皇子(おおあまのおうじ)・・・後の天武天皇との間に起こった、壬申(じんしん)の乱が上げられますが、それよりもほぼ百年ぐらい前にも、大きな戦いがありました。つまり敏達(びだつ)天皇の頃に起こった、物部守屋と蘇我馬子による大騒乱ですが、この二人の対決の様子を見ていると、二十一世紀の今日にもかかわりがありそうな問題が横たわっているような気がしてくるのです。そこでわたし流で、その事件の裏側の事情を勘ぐってみました。

この物部という一族は、古来から日本にいた集団で、連(むらじ)と呼ばれる、所謂軍事、外交を任務とする所謂職能集団でした。それに対して蘇我という一族は、当時の先進国であった朝鮮半島からやって来た客人(まれびと)の集団で、所謂朝廷内部の組織を機能的に運営していくことを職務とする臣(おみ)と呼ばれる技能集団でした。

まだまだ国としては弱小であった日本は、大王(おおきみ)と言う、日本全国にいた王の中の王である大王を中心とした支配体制を、ようやく整えつつあった時代で、まだまだ朝廷という組織は、先進の国から見たら未熟だったのです。この頃はどうしても、先進国であった朝鮮半島あたりから、組織、運営を任せられる職能集団を呼び寄せて、大王の政治を内側から支えさせることが必要だったのです。こういう職能の者を、臣(おみ)と言っておりました。それに対して、まだまだ国家としては、中国大陸、朝鮮半島からみたら弱小国だったところから、高位発揚のためにも、武力を背景にして日本の立場を主張して、勢力を拡大していかなくてはなりませんでした。その役割を受け持っていたのが、連(むらじ)という職能集団だったのです。

この臣の長が大臣(おおおみ)であり、連の長が大連(おおむらじ)と呼ばれていて、一族を統率していたのです。そしてその代表者として力を誇っていたのが、大連の物部守屋であり、大臣の蘇我馬子でした。

もう賢明なあなたはお気づきになっていらっしゃると思いますが、この二人が力を合わせている間はいいとして、やがてそれぞれが力を拡大していくと、その役割の違いから対立が始まっていくようになります。この両者には、二つの大きな質の違いがあり、そのために対立する素地があることに気がつきます。

それは外部へ向かって、威力を発揮する物部に対して、内部に向かって威力を発揮する蘇我という図式が描けます。もうちょっと別の捉え方をすると、武力を誇って外交に威力を発揮する物部に対して、和を重んじて、内政の充実ということに威力を発揮する蘇我ということとしても捉えることができます。

こうしたことが、ついには大きな対立を生むことになるのですが、神の加護によって、対外的に威力を発揮してきた物部氏は、農民を統治するにしても、力任せに押さえつける傾向があり、あまり彼らの受けはよくなかったようでした。それに対して蘇我氏は、もっぱら内政を担当してきましたから、天皇を含めて朝廷の掌握がしやすかったのと、農民たちの生活の実態を正確に把握していたわけです。

外交、外交といって、常に外へ目を向けて発展して行こうとした物部氏と、内部充実に精力を使ってきた蘇我氏との間に、決定的な対立が生まれてしまいました。

神仏論争です。

これは神の厳しさに対して、仏の慈悲という、相反する対立ということで捉えることができます。これまで神に従い、厳しい生活を強いられてきていた農民たちにとっては、優しさを持った仏に、気持ちが揺れていきます。それは次第に、神と仏を信奉する物部氏と蘇我氏という図式に代わって捉えられていくようになります。しかしわたしは、そんな高尚なことでの勝負は、よほど高貴な人でないと理解できないことで、その後起こった両者の大戦争は、神仏論争から始まったことではあるのだけれども、もっと下世話な関心がその勝負を分けてしまったと思っているんです。

わたしは両強豪の勝負を分けたのは、そのどちらに農民たちが味方をしたかということになると思っているのです。

結局、神がいいか、仏がいいかということは二の次の問題で、実は神を信奉する物部氏が徹底的に厳しい生き方を押し付けたのに対して 、蘇我氏は農民の願望に応える施策を打ち出していたのです。

それはどんなに耕作に不便な土地でも、神から頂いた土地を勝手に変えてはならないというのが、物部氏の立場であったし、不便なところは改良して使うべきだと言うのが蘇我氏の主張だったのです。辛い生活を余儀なくされてきた農民にとっては、きっと蘇我氏は救世主のように写ったでしょう。使い難い土地を改良してもいいと言うことになれば、労働がきつくなくなるし、収穫も多くなり、暮らしを少しでも楽にすることが出来ます。

口には出さないけれども、蘇我氏を支持するし、彼らが信仰する仏も優しさがあって支持するようになっていったのです。

あの物部、蘇我の大戦争が、あっという間に片付いてしまったのは、その関係者だけではなく、圧倒的に多かった農民たちが、どちらに味方をしたかにあったからだと思います。伝説では戦いに参加していた幼少の厩戸皇子が、五体の仏の像を彫って、額の鉢巻に挟んで戦いに望んだところ、一気に大勢は逆転してしまい、蘇我氏の勝利になったというのですが、わたしはもっと現実的に、農民の支持の違いが勝負を分けたと思っているんです。そして物部氏は没落していってしまい、蘇我氏は全盛期を迎えることになるのですが、この大戦争の裏には、もう一つ両者の間には、問題があったのです。

それが、土地問題でした。

実はこの蘇我馬子が支配していた飛鳥のあたりは、湿地帯でいつもじめじめしていて、水はけの悪いし、旱魃で田畑に水が欲しい時には、それを供給する溜池のようなものがありませんから、地質としてはあまりいいところではありませんでした。一方の物部守屋の支配地は大阪の八尾のあたりで、大変地質に恵まれていて、大きな溜池を持っていて、天候に支配されることなく、その時々によって、その水を利用することが出来たのです。蘇我氏は、その土地が欲しくて仕方がなかったはずです。

神仏論争は、その口実にすぎなかったということができます。

蘇我氏は朝廷の事務、管理、財政などを管理していたこともあって、農民たちの欲求をよく知っていたので、それを上手く救い上げて政治に活かしていったし、戦いのエネルギーにも変えていってしまったのです。一方、長いこと軍事、外交の専門家であった物部氏は、現実の世の中が、どんな方向に向かっているのかということについて、あまりにも無知でありすぎました。つまり農民たちを、力で抑え込もうとするだけで、彼らに鬱積していく問題に対する理解が、ほとんどありませんでした。しかしそういったことが、最後にその氏族の運命さえも分けてしまうことにもなってしまった訳です。庶民の声を如何に上手く汲み上げていけるかどうかは、政治家ばかりでなく、各界の指導者に絶対欠かせない能力だと、今さらながら思うのですが、どうでしょう☆



この原稿は、旧HPのものを加筆、訂正したものです。