知る世界 「旅雑記」(20)「歴史体感の難しさ」

史跡や神社、仏閣を訪ねることが多い私ですが、その時に私自身も、ふと戸惑うことがあります。

現代人が、歴史に関係するところを訪ねる時のことです。

ついうっかりそのことを忘れて、現場へ行って、何だこんなところだったのかと思ってしまったりすることがあるのです。数刻後になって、改めて歴史を思い起こすと、かつてはまったく違った位置関係にあって、言葉を失ってしまうことがあります。/従って、とても当時の姿を想像することもできません。

今年は、所謂観光シーズンに史跡を訪ねることが多かったのですが、どこへ行っても、丁度修学旅行の学生たちがグループごとに行動していて、とにかく学校から渡されたパンフレットを見ながら、慌ただしく動き回っているのに出会いました。

そんな中学生たちを見つめていて、ふと感じることがあるのです。彼らはほとんどの場合、付き添いがいません。気の合う仲間との観光です。

どこへ行っても、学校から渡されたパンフを片手に行き先を辿りながら移動していました。その点では大いに結構なことだと思いました。間違っても、それがいい経験になると思ったからです。しかし、そんな中で、はしゃぎ回っている仲間から外れて、いささかしょんぼりとした姿でついて行く生徒がいるのを見ると、ちょっと心配な面を感じてしまうのです。グループ分けはされたけれども、仲間とはそれほど親しくはないのかもしれません 。付き添いなしの弊害の一つなのではないだろうか。そんな時に、ぽつんと目標点へ向かう人に、声をかけてやる配慮をしてやらずに、はしゃぎながらさっさと先に行ってしまうのです。

話が横道にそれました。本題に戻しましょう。

彼らは展示物を、じっくりと見ることもなく、そこに掲示されている説明を読むでもなく、とにかく流れるように見つめて行ってしまいます。こんな時に、ちょっと説明をしてやれるような人がついていたら、忙しい旅程の旅であっても、何か心に残るものがあるのではないかと思ったりしたのですが・・・。

彼らはとにかく急がしそうで、また直ぐに古都を立ち去って行ってしまいます。そしてお土産屋さんへ飛び込んで行くのです 。修学旅行というものは、おおむねこんなもので、成人した時に昔の印象を頼りに、もう一度訪ねて行くことになるかどうかということなのかも知れませんね。

もちろんこうしたガイドのいない修学旅行では、歴史を体感してみるなどということは、とても要求しても無理なことです。 ところが、改めて歴史を体感してみようとしてみると、急速に発展したり、時代の要求に沿った開発が行われたりしていて、大変難しい面があることに直面することが多いんです。

わたくしたちのような者が行っても、そんな具合で、戸惑ってしまうことが多いくらいですから、まだ中学生ぐらいの年齢で、それほど歴史に関心を持ってもいない者たちに、歴史の追体験をしてみなさいなどといっても、それはとても無理な話だなと思うことがあるのです。

とにかく史跡が存在としていた頃とは、大変様変わりしているところが多いからなのです。もし、歴史の追体験をしたいと思ったら、まず当時の地形や、歴史的な建造物がどこにあったかを、頭に置いておかないと、現代の風景を眺めてみたところで、とても当時の地形とは違っていて、創造も出来ませんから、歴史を追体験するなどということも出来ません。

それとその地方の行政機関や関係者が、その史跡を大事にしようという気持ちがなければ、とても他所からやって来る人たちが、追体験をしようとしても、満足な状態では残っていません。

中学生ぐらいでは、ただ歴史の積み重ねられた都へ行ってきたということぐらいで、とてもそれ以上のことを求めることは、無理なことなのだと、複雑な思いで見つめているのですが・・・。☆