知る世界 「旅雑記」(24)「町の片隅に歴史あり」1

これまで大学での集会の機会が、年に何回かあって、JR田町から慶応横丁を抜けて、大学へ行っておりました。  駅から十数分で、かつては通学路でもあったわけです。  文学部の学生は、日吉での一年生の学習が終わると、二年生からは、三田の山へ通うことになるのです。昔はこの道をせっせと通いました。

当時は学生服と帽子を売る洋品店が、慶応横丁の店のほとんどを埋めていたものでしたが、あれから50年もたった現在は、まったくその姿を変えてしまいました。ほとんどが飲食店に変わってしまっています。

私もとうとう、卒業50周年という、記念すべき年を迎えて、昨年は大学から招待を受けたのでした。

そんなこともあったので、かなり長いことJRの田町駅で下車することはなかったのですが、久し振りに大学へは何回か出かける機会がありました。その何回かの機会のうちに、いささか予定時間よりも早く着いてしまったことがあったのです。

そんな日のことですが、私は駅から気ままに、あてもなくあたりを散策してみることにしたのです。

間もなくそこに、歴史を記すものを発見したのです。

それが勝海舟と西郷隆盛の、江戸城開城の会談が行われたところを記した記念碑でした。

江戸時代のことですが、このあたりに薩摩藩邸があったのですが、その裏手はすぐに海岸になっていて、砂浜が広がっていたようです。九州から送られてくる物資は、ここから陸揚げされて、藩邸へ運び込まれていたということでしたが、幕末あたりにいよいよ幕府に不満が高まってしまって、その打倒を叫んで進撃して来た討幕軍は、指揮官で陸軍総裁の西郷隆盛を先頭にして江戸へ迫って来た時、幕府代表の勝海舟が、江戸市民を戦火の犠牲に晒さないためにという、話し合いを申し出を行って、西郷とここの薩摩藩邸で劇的な会談を行ったところだったのです。

昨年、放送になって人気を集めていたNHKの大河ドラマの「篤姫」でも、そのクライマックスに登場した歴史的な会談ですが、それがこの田町にあった、薩摩屋敷において行われたということです。今は交通の要路で、自動車が激しく行き来する大きな通りの一角になっているのですが、行き来する人はほんどその記念碑に目を留めることもありませんが、こうした歴史的な劇的な話とはまったく次元の違う、ごくごく庶民的な人情話の舞台でもあります。落語の決定版と言われる「芝浜」の舞台でもあるのです。

現在の東京は、日々変貌していっていますから、そうした歴史的な場も、どんどん忘れられてしまったり、打ち壊されていってしまいます。それぞれ記憶の彼方へ押しやられてしまうのでしょうか。

日常的には、何気なく通り過ぎて行ってしまうようなところに、あまりにも重要な歴史の一瞬を記録したところがあったのですね。

長いことこのあたりには来ていたはずなのに、そうしたことにはほとんど気がつかずにきてしまったことを、恥ずかしいと思ったことでした。

何の目的もなく、ただ時間つぶしの気ままな散策の結果の収穫でしたが、思いがけない歴史の瞬間に、立ち会ったような気持ちになったものでした。

あなたも時間がありましたら、是非、お出かけになって、見つめてみるのもいいのではないでしょうか。

田町駅を降りて、森永製菓のビルを右へ曲がって、数分のところに記念碑はあります。

これからも町の散策の途中で、こんな思いがけない発見を、一つ、一つ集めてみたいと思いました☆

勝、西郷会見の場の写真