知る世界 「旅雑記」(41)「神仏分離令余波」

拙著の中で、大分触れたのですが、明治時代に政府が出した神仏分離令の余波ということについてお話しようと思います。 この政令が出た後、廃仏稀釈と言う運動が広がって、国内の各寺はかなり攻撃の対象になってしまったので、その生き残りのために腐心したようです。仏具は破壊されるし、鐘も破棄されてしまう有様で、それぞれ大事にしてきた宗教用具を失っていきましたし、更に寺そのものが維持していくことが難しくなってしまったことが伝えられています。

拙著「幻視行 月の都、京都」(平安京をめぐる旅)の取材のために、兵庫県の愛媛にある大避神社を尋ねた時のことですが、神仏分離令の件についての話に及んだ時、神主からお聞きした話ですが、その時の凄まじさが窺えるものでした。

ここは古代史に欠かせない存在である、秦河勝の霊が祀られているということで有名な神社なのですが、どうやら元々は寺であったようです。その証拠にここの入口には山門があるのです。通常神社は鳥居があって拝殿へ向かうことになっているのですが、神社に山門と言うのは、どうも解せませんでした。しかもその山門の正面左右には神像が飾られているのですが、その山門の裏側の左右には阿吽の仁王像が飾られているのです。

どうして、このようなおかしなことが行われているのかと疑問に思っていたのですが、神主さんの説明ではっきりとしました。 神仏分離令が出た後で、慌てて山門の正面左右にあった寺に関係の濃い仁王像を裏に廻し、裏にあった神像を正面に据えてしまったというのです。たった一夜での、寺から神社への大変化であったのです。

明治時代の大異変の影響が、このようなところに、今でもはっきりと残っているというお話でした。機会がありましたら、是非、愛媛の坂越というところへ行ってみて下さい☆

大避神社と生島の写真
正面の神像の写真
山門裏仁王像の写真