知る世界 「旅雑記」(55)「平清盛余談」

大河ドラマでは「平清盛」が登場したのですが、兵庫県知事が、画面が薄汚いと発言して話題になりました。これについては脚本を書いてきた者としては、画面が汚かったというのは知事が映像関係者ではなかったからで、私としては画面の綺麗、汚いということではなくて、内容の薄汚さということなのです。それはあの冒頭で後白河院が、かねてからその素行に問題のある、養女の璋子を鳥羽天皇の中宮にしたのだが、その璋子に子を産ませてしまうという、実に薄汚い話から始まったことに対する、印象なのだと思っているのです。実は歴史の中でも、鳥羽天皇はずっと璋子の産んだ子を、後白河の子ではないかと疑いつづけていたようですが、真相は判りません。

その時の子崇徳院は、やがて謀反を起こして死んで行きます。その霊廟は、京都の祇園の中にあります。

実は今回、どうしてこんな話から始めたのかといいますと、実は平安京の取材をしているうちに、奈良仏教の寺であった法金剛院というところが、どうして平安京に生き残ったのかということを調べていた時に、この寺の庭に、中宮となって待賢門院となった璋子が、建てた歌碑を見つけたのです。

平安京では、平城仏教を絶対に入れないという姿勢でしたから、律宗という平城仏教の寺は存在できなかったはずなのです。 実は平安京になった時に、一時寺ではなく清原夏野の別荘になったのです。双ケ丘を望む庭園の美しいところで、彼がそこを手放した後は、庭園として整備されるのですが、そこには嵯峨天皇も、仁明天皇も遊びに来たほどでいた。そんなところだったのですが 、この待賢門院が、寺として復活させたのです。彼女の力だとは思いますが、歴史の世界では、どうもあまり評判は良くないようで、お気の毒です。

ひょっとすると、現代のすっ飛んだお嬢さんだったのかもしれません。

大河ドラマの話題から、ふと思い出してしまいました☆

法今金剛院・境内の写真
待賢門院歌碑の写真