楽しむ世界 Faile 4 「ひとくち古代史考」(化身)

まだとても、科学と言えるような知識が存在していなかった古代においては、超自然的な不可思議な現象は、すべて神が姿を変えて現れたものだと考えて、畏怖していたわけです。

そのうちに人々は、とにかく人知を超えた力を発揮する神の真の姿を、何とか見届けることはできないものかと思うようになりました。

その手がかりとなっていたのは、釈尊が亡くなってから56億7千万後にこの世に現れて、民を救うと言われていた弥勒菩薩は、一体どんな姿で我々の前に現れるのであろうか。

しかし何といっても、56億7千万年するとと言われても、それには気の遠くなる時間が必要になります。

ひょっとすると神々は、すでに姿を変えて、我々の身近なところへ来ているのかもしれないだろうと思うようになっていったのです。そうでなければ、農民たちを助けるような力を発揮したり、時には厳しい試練を課して、人間の過ちを改めさせるきっかけを作ったりすることは、出来ないはずです。そう思うと、それだけ益々神の姿に接したいという欲求に駆られていったのでした。

一体、神はどこに、どんな姿に化身しているのであろうか。それは当時の人々の、最大の関心事でした。そして人々は、身を律して生きていないと、神がどこから見ているか判らないという緊張感を持って暮らしていました。しかしそれでも、神をその目で見届けることはできません。その手立てもありません。

(神の姿を見届けたい)

古代の人々の願いは高まるばかりでした。

やがて彼らは、ある考え方をするようになったのです。つまり神は、姿を変えて我々の身近なところにいるという思いは、確信に近いものになっていったのです。人間を災禍から救済してくれたり、厳しい試練を課したりしてくるのは、よほど人間の身近なところに存在しなくては、出来ないではないかと思うようになっていったのです。

どんな未知の物であっても、その正体を突き止めてしまう、超科学の時代である現代とは違って、古代においては、未知のものに出合ったりした時は、証明する手立てもないところから、神は姿を変えて、我々の身近に存在すると考えても当然かもしれません。それはごくごく自然な判断だと思います。

そんなことから、人々はある存在に注目するようになったのです。それが「蛇」でした。

わが国は豊葦原瑞穂国と呼ばれるほどで、ほとんどの者が農業に携わっていたのですが、そんな彼らにとって、天敵となっていたのは何といっても稲田を荒らすネズミの存在だったわけです。その駆除には苦心していました。

ところがそのネズミを駆除してくれる、有難いものが現れたのですから、注目せざるを得ません。実はそれが蛇という存在だったのです。ところが、もし蛇の注目度が、単に農民たちの天敵であるネズミの駆除をするだけで終わっていたとしたら、ただ有難いだけで、それ以上余計なことは考えなかったかもしれません。

ところが・・・やがて農民たちは、蛇は季節が来ると、脱皮するということに気がつきました。その抜け殻を発見した時、農民たちは、新たな目で蛇を見つめるようになったのです。

(こんな不可思議なことをした上に、農民たちがネズミの被害で苦しんでいる時に、まるで救世主のように現れた蛇は、神が姿を変えてこの世に現れ、我々を助けてくれ始めたのだ)

こんな風に捉え始めたのです。

このように超自然的な存在物が、あるものに姿を変えることを「化身」というわけです。

農民たちはかなり古い時代から・・・つまり仏教が入って来たころから、弥勒菩薩は、釈尊が亡くなってから56億7千万後にこの世に現れて、民を救うと言われていて、その時が来たらどんな姿で現れるのだろうかと興味深く受け止められていたほどだったのですが、蛇の不可思議な脱皮と言う行為を見て、神はさまざまな姿に化身して、この世に現れてきていると思うようになりました。

神はこのように、人間の思いつかないさまざまな姿に化身して、この世に存在して、我々の暮らしを見届けているかもしれませんね☆