楽しむ世界 Faile 5 「ひとくち古代史考」(憧れ)

いよいよ爽やかな季節になりました。

古代の人たちは、やがて夏がやってきて、活力が頂点に達していきます。もちろんそれからは、じょじょに活力が衰えていく秋から冬になっていくと考えていました。そこで今回は、そういったことに関して、あまり肩の凝らないお話にしようと思います。

ま、気持ちを楽にしてお読み下さい。

最近、つくづく思うことなのですが、漢字には実に意味深いものが多いものだと思うのです。漢字の妙とでも言うのでしょうか・・・その表記に篭められた意味が、ずばりとその核心を突いていることがありますし、微妙な雰囲気を伝えていることもあるように思えてくるのです。

そこで今回取り上げたのは、「魂離(あくが)れ」という言葉です。

恐らく多くの方は、ほとんど出会ったこともない言葉でしょうね。しかしこれは、まさに古代の言葉ではあるのですが、二十一世紀の現代でも見事に活きている状況を表す表記なのです。

古代なんって・・・まるで現代とは関係がないじゃないかなどとは仰らないで、まぁ、お付き合い下さい。その言葉は、古代から現代まで、延々と使われてきているのです。

「魂離れ」・・・文字をそのまま読むと、魂が離れるということですが、昨今よく言われる、魂が体を離れて飛行するなどという、興味本位のものとは違って、そうなった時の状態を表す言葉・・・要するに魂が離れてしまった結果、どんな状態になるかと言うことを表現した言葉なのです。ちょっとその時の姿を想像してみて下さい。それと同じような状態は、現代でも見ることができるのではありませんか?

昨今、韓国のテレビ作品で「冬のソナタ」が大当たりしてから、韓国作品やそれに出演した俳優に熱を上げる女性・・・若い人はもちろん熟年女性までが、夢中になっているようです。そのきっかけは、言うまでもなく「冬ソナ」の主役を演じた、ペ・ヨンジュという俳優にあります。

女性などは老いも若きも、「ヨンさま。ヨンさま」と大熱狂ぶりで、いささか男性諸君は辟易している方も多いのではないでしょうか・・・。彼を頂点とした韓国男優陣は、現代日本ではほとんど見かけないタイプのイケメンだということで、熟年婦人にとってはロマンを夢見た頃を彷彿とさせる俳優なのでしょう。彼らを見つめる目は、異常なくらいで、まさに恍惚状態といってもいいのではないかと思います。

あれはまさに魂を奪われてしまったかのような状態です。特に今回のヨンさま、イ・ビョンホンを頂点としたフィーバーは、熟年女性にその頂点があるようですが、もうそろそろくたびれかけているご主人よりも、若く、美しくて、かつて叶えられなかった夢を、満たしてくれそうな韓国俳優に、後半生の夢を託しているかのように思えるほどです。

ま、そんなことはいいとして、わたしがお話したいのは、そんな陶然とした状態を、古代の人は「魂離(あくが)れ」と表現していたわけですが、それが時代を経るに従って「憧(あこが)れ」と変化して、現代でも使われるようになっているというのです。

本来はもっと重大な意味が篭められた言葉だったのですが、それはあとで触れることにして、取り敢えず、あることに囚われ、魅せられ、夢中になりすぎてしまって、まるで魂が肉体から離れていってしまったかのように心を奪われ、ただただ呆然としている状態を、「魂離れ」と言ったと思っていて下さい。

若者がよく芸能人、文化人などの傑出した人に「憧れる」ということがあります。あなたもそんな経験はおありでしょう。そんな時、もしその憧れの人が、目の前にでも現れてしまったら、また、仮に遠くても、その姿を見届けることができたら、きっと恍惚として魂を奪われてしまったような状態になってしまうのではないでしょうか。つまり「魂離(あくが)れ」の状態になるわけです。それを現代風に言えば「憧れ」ということになるわけです。

よく「古代なんか・・・」と言う人がいらっしゃいますが、こうして古代からの表現が多少変化したり、中身が変化したりしながら、現代でも使われている言葉や風習が、いくつもあるように思われます。

ところで古代の人が、どうしてこんな言葉を残しているのかと言いますと、それには極めて大事なことが秘められていたからなのです。

当時の絶対的な権力者は誰かというと、それは神から地上での統治を託されている天皇ということになります。もし彼に「魂離れ」が起こってしまったら、民としては安穏な暮らしが保障されないということにもなります。朝廷の要人たちは、そのことに大変神経質になっておりました。

それでは天皇は、一体どんな時に魂離れをする危険があるのでしょうか。

もちろん臣民のように、下世話なことで、何かに魅せられてうっとりなどということではありません。天皇は日輪の化身と思われていたので、季節の変化、つまり日輪・・・太陽の勢いの変化が一番気になることだったのです。希望を感じさせる春、勢いを感じさせる夏、しみじみともの思う秋、すべてが活動を止める冬。太陽神である天照大神から、地上での統治を付託されている天皇としては、太陽の変化はそのまま自分の霊力の変化ということに直結していくものと考えていましたので、とにかく季節の変化については敏感になっていました。それに農民たちにしてしても、その変化に合わせて農作業をしていましたし、生活もしていましたので、重大な関心を持っていたことに違いはありません。

とにかくすべての人が、自然と共にあった時代だったのですが、その頂点にいたのが地上の支配者である天皇だったわけですから、自然の変化・・・特に日輪の勢いの変化ということには神経質になっていたのです。

そうした季節の変化に対して、神経質だったのは天皇だけではありません。彼に異常がないように見守っていた朝廷の重臣たちは、それ以上に敏感になっていました。

前述しましたが、この頃の天皇は日輪・・・太陽神の神託を得て臣民を統治していましたから、地上に起こるさまざまな自然の変化に、責任を持たなくてはなりません。ところが秋が深まると、次第に太陽は勢いを失っていきます。しかし現代人は、そんなことでびくびくするなどということはないでしょう。ところが古代の天皇は、日輪と一心同体の存在ですから、自分も勢いを失っていくような気になっていたのです。その頃になると、自らの肉体から魂が離れていってしまいそうな不安に、脅かされつづけていたのです。その様子がまさに「魂離れ」の状態だったのです。日々、物思いに耽っていきました。

そんな様子を見るにつけて、不安が募り、深刻になったのは重臣たちでした。何とかあの日輪の勢いを、取り戻して頂かなくてはならないと思いました。

重臣たちの中で神に仕える役職の者は、天皇の霊力が衰え、やがて肉体から魂が離れていかないようにというので、「魂振(たまふ)り」という魂の活性化をする術を行いました。そしてその一方で、天皇の衰えた勢いを取り戻して頂くために、秋に収穫した新しい生命が宿っている米を、天皇に食して頂こうとしたのです。その行事が「新嘗祭(にいなめさい)」という行事だったのです。もう現代の若者には、ほとんど知っている人はいなくなってしまったでしょうね。現代ではその日のことを、「勤労感謝の日」と言われる国民の祝祭日になっていますから・・・。

それでも昨今は、宮中では天皇が稲の苗をお植えになりましたというようなニュースが流れたり、秋になるとその米を収穫して食するということを、伝統行事として報道したりしています。それはこうした故事に倣ってのことだということは、現代人でも知っておいて頂きたいものです。あれはまさに天皇が、「魂離れ」をしないように、新しい米に宿っている新鮮な生命力を取り入れて、生命を活性化するという願いから行われてきたことなのです。

こんなことから、臣民共に大きな関心事であった、秋ごろに起こり易い天皇の状態・・・もの思いに耽って、如何にも魂が離れていくように思えるぼーっとした状態を、「魂離(あくが)れ」というようになり、やがて時代をへるにつれて、何かに対して陶然としてしまう状態になることを、「憧れ」というようになったのでした。

古代と現代との間には、切れているようで切れていないつながりがあるもvです。

そんなことはいろいろとあるのですが、「魂離れ」と関係がありそうなものを上げてみると、「読書週間」というものがあります。昔から秋になると、必ずニュースなどで紹介はされますから、ご存知だとは思いますが、それは古代からの「魂離れる季節」・・・つまり一般的に秋になると、どことなくもの思いに耽ったりするようなところがあったので、そんな気持ちの流れに沿うようにということから、企画されたものだと思うのです。

もの思う秋には、読書をしましょうということだったはずです。

それが昨今は、かなり惰性になっているとしか思えません。

最近は本当に、「もの思う秋」というものを実感したことがなくなっているのではありませんか。秋だからと言っても、もの悲しくなったり、もの思いに沈んだりといった気分にはなり難い風潮だからです。「食欲の秋」「スポーツの秋」「旅行の秋」などということは盛んに喧伝されますが、「読書の秋」「芸術鑑賞の秋」という文化面のほうの秋は、どうも陰に隠れてしまっているように思えます。

「魂離れ」は「憧れ」に変化してきてはいますが、思いつめてぼーっとした姿は見かけなくなりました。時代の変化と言うことなのでしょうか。現代の人は秋になると、「食欲」「スポーツ」「旅行」と、とにかく行動的です。じっと落ち着いて、思わず考え込んでしまうこともなくなってしまったのかも知れないし、そんな心理状態になるようなことも、まったくなくなってしまったのかもしれませんね。活動的ではありますが、思慮に欠ける人が多くなっていきつつあるように思えて仕方がありません。

是非、「もの思う秋」を復活させたいものです。

何かに憧れて、まるで体から魂が抜け出ていってしまったような状態になりがちであった時代には、心というものの存在を認めて、それを大事にしようという気持ちがあったのだと思うのです。

現代ではそういった気持ちが大分薄れてしまっているようで、慄然とする事件を引き起こすことが多くなっています。もう一度心の問題を大事にする時代は復活できないでしょうか。もちろんそれが、前時代の精神主義を復活させることになっては困るのですが・・・。

あなただけでも、今年の秋には「もの思う秋」を復権してみてはどうでしょうか。☆