楽しむ世界 Faile 14 「ひとくち古代史」(祈り)

日常的に神社仏閣へ行った時、手を合わせることが多いと思うのですが、しかし常識的に、神に祈る場合と、仏に祈る場合では、ちょっとその作法は違うのですが、ご存知でしょうか。

大体、手をパンパンと叩いて祈る神社と、静かに両手を合わせて祈る寺院という違いぐらいは、ほとんどの人が知っていると思うのですが、もうちょっと詳しくその違いを知っておく必要があるようです。

これは古代に題材を求めて小説を書いているうちに知ったことなのですが、わたしたちの知らない、いえ、如何なる先人たちも知り得なかった、死後の世界に君臨しているのが仏さまですから、やがて天上界へ行く時が来ましたら、よろしくお願いいたしますということで、仏様にはお願いをするのですが、神様に対する祈りは、いささか違うようです。いえ、本当はこれまで常識的に行われてきた祈り方では、通用しないようなのです。

通常、神社へ参拝するというと、年の始まりの初詣が圧倒的ですが、その時も、仏さまへの祈りと同じように、幸運を下さいとか家内安全をよろしくとか良縁に恵まれますように等々、願い事のすべてを神様に託す人が圧倒的なのですが、あのようなお願いなどとやっているようでは、とても神様は聞き入れてくれないようです。

神前結婚式にお出になった方は、経験していらっしゃると思うのですが、必ず新郎新婦は、神前で誓詞というものを読みます。今後わたしたちはこのようにして生活していきますと、誓いを立てるわけです。つまり神様に祈る場合は誓わなくてはいけないということなのです。それなのに初詣の時、ほとんどの方は、今年の幸運をお願い、お願いとやっています。しかしここが問題なのです。そんな弱々しいことを言っているようでは、神様はまったく受け付けてくれないでしょう。その年一年を、どう生きようとしているのかを、気迫を籠めて誓わなくては、その意気込みに応えようということにはならないはずなのです。

果たして神社へ押しかける参拝者たちは、こうした神様に対する接し方を、どのくらい知っていらっしゃるでしょうか。かなり疑問です。

本来神様は、活力のある、生きている現世の者を束ね、活力を失った死者の来世は、仏が束ねるという考え方をしているのですから、勢いを尊重する神様に対して、「お願い」などと弱々しいことをいって祈っても、受け付けるはずはないはずです。

古代の人は、みな自分が信仰する神様を持っていましたから、何か重大なこと、一大決心をして事を行う時には、その信仰する神様のところへ行って、「イ罵(の)る」のです。

「祈る」ではなく、「イ罵(の)る」のです。

調べたところ、現代でもよく使われる、「大事に取り組む」などという時に使われる「命をかけて」「命を賭して」などという時の、「命」ですが、古代では「イ」の「チ」と分けて受け止め、表現していました。「イ」というのは「生命」ということです。「チ」というのは、「オロチ」とか「オロチ」のように、力を表す言葉であったので、「イ」の「チ」というのは、「生命」の「力」があるということですから、「生命力」ということになります。 つまり「イ罵る」ということは、生命をかけて罵るということなのです。そんな訳ですから、通常神を罵るなどということはとても恐ろしいことで、滅多なことでは出来るわけではありません。しかし一大決心をして行わなくてはならない、宿敵を討つ時などは、思い切り激しい言葉で神を罵って、助力を引き出そうとしたわけです。

「もしこのわたしの決心に力を貸してくれないようであったら、そんな無力なあなたを、今後二度と信仰することはないだろう」

こんな風に罵ったようです。

すると挑まれた神様は、絶対的な力を持った者に挑戦したら、命を失うかも知れないという、極めて恐ろしい、危険も顧みずに、敢えて挑んできた強い意志に対して、

「よーし。よくも命を失うことも恐れずに、よくもわたしを罵ってきたな。わたしの威力を思い知れ」

と、いうことで、その力を発揮して祈願する者に力を与えるというのでした。

神に祈るといことは、現代の初詣、日常の参拝で行うような、のんびりしたものではなく、「祈る」ということは、命がけの行為だったわけです☆