楽しむ世界 Faile 16 「ひとくち古代史考」(邪視)

現代ではほとんど耳にする機会のない言葉です。

恐らくこんな言葉は、昔々に使われていただけで、現代とはまったく関係のない言葉だと思われがちだと思います。ところが・・・、21世紀の現代でも、古代からその影響が恐れられて、ある形が継承されているということが、いろいろとあるものです。その一つが、お花見というものですが、今回は華やいだお話とは、ちょっと違って「邪視」ということです。響きといい、字面の印象も、どこか嫌な印象がつきまとうのではありませんか

よこしまな目で見られるということなのですが、悪魔のような目で見られるということなのです。

誰であっても、そのような目で見られることは、避けたいものですが、科学知識のなかった古代人が、それを怖れたとしても仕方がありません。当然ですが軽蔑する気など、まったくありません。しかしそうした古代人がやっていたことを、もし21世紀を生きている我々が、まったく抵抗感もなくやっているとしたら、どう思いますか。

第一、そのような邪視などということをする者はいるのでしょうか。

しかし、いるようなのです。

それは古代から、まったく変わらずに信じられてきているようです。

一体、それはどのような者だと思いますか。

実は死者です。

古代の宗教感というものでしょうか、死者というものは、とにかく活力を失ってしまった姿であって、神は一番嫌う存在です。気が涸れた状態・・・つまり「きがれ」が、やがて「けがれ」に通じていくわけで、最も嫌がられた状態だったのですから、死を恐れると同時に、最も恐れられていました。そして生きている者が最も恐れていたのは、その死者に見られるということでした。

古代においては、「見る」ということが大変大事なことであったことは、前に触れたことがあったと思うのですが、国や地方を統治している大王などは、国見、山見などということをして、自然の、民の勢い・・・つまり「気」を貰って、活力にしていたくらいですから、逆にその反対に、まったく活力のない存在である死者に見つめられてしまったら、「気」を持っていかれてしまうという心配があって、恐れられていたのだと思うのです。

それが、現代とどう関係があるのかと言われそうですね。

とにかくそんな古代の習俗が、この超科学の現代にまで残っているはずはないではありませんかと、逆襲されてしまいそうです。

しかし存在しているのです。

しかもわたくしたちの、ごく身近なところに、そうした古代の習俗が残っています。

もしあなたの周辺で亡くなった方があって、その通夜につき合った時など、死者と対面する機会があると思うのですが、その時多くの場合は、その死者の顔に白い布がかけられているのを見るでしょう。

折角、親しい人がお焼香に来て下さるのに、なぜ顔を覆ってしまっているのでしょうか。

それが今回の話のポイントなのです。

「邪視」です。

つまり死者に、邪視されないようにという気遣いからなのです。

恐らく現代の人々は、そんなこともまったく知らないし、死者にかけられた白い布が、何のためなのかということなどにも、まったく関心がないまま過ごしているのではないでしょうか。

どうか「古代」なんて、古臭いことを・・・などと言って無視したりしないで、ちょっとお考えになっては如何ですか。古代は、現代でも生きているのです☆