楽しむ世界 Faile(17)「ひとくち古代史」(多多良女)

ようやく春本番の季節がやってきました。何となくうきうきとして、じっとしていられなくなる季節です。若い人にとっては、恋の季節かもしれませんね。

そんなわけで、いつも思い浮かべてしまうのは、古代の女性のたしなみのことなのです。

昨今は女性のなみについては、とても簡単には論評できなくなってしまいました。特にファッションなどについては尚更です。迂闊に論評などはできません。実に大胆で、奇抜なファッションを生み出してきたりします。それに鮮度や、センスの新しさを感じることもあります。しかしパフォーマンスとしては理解できるのですが、どうも昭和一けた族のわたくしとしては、あまりにも行きすぎで納得できないことが多くなってきてしまいました。何でも目立たなくては魅力を感じないという魂胆が、見え見えで受け入れられなくなってきてしまいました。

しかしファッションのことについては除外したとして、女性のたしなみ・・・相手に対する思いやりというようなことについては、いささか不満が高まってきてしまいました。 年齢のせいでしょうか。

価値観がまったく違ってしまったことによる、違和感かもしれません。時代によって、理想の男性像、女性像が変わっていくのも、止むを得ないことだと思います。ところが昨今は、男性、女性の中性化という傾向があり、かつてのような男性は男性らしく振舞い、女性は女性らしく振舞うという風習が、大分薄れてきてしまいました。そのために、すべての表現が大胆になって、いわゆる恥じらいなどというものが 、ほとんど感じられなくなってしまいました。そしてそれに同調するように、お互いがお互いを気遣うという、いい風習が希薄になってきてしまったように思えてなりません。男女 、お互いに同権という意識が徹底してきたためなのでしょうね。女性の男性への気遣いなど無用という意識になってきてしまったようです。その分若い男性が、やたらに優しくて女性化してきてしまいました。かつての、いわゆる「らしい」気遣いは、無用ということになってしまったのでしょうか。もちろん男性も、男らしさということを勘違いして、暴言、暴力を思うがままに、気遣いなど無視するようなことは是正しなくてはならいとは思うのですが、女性もこの機会にこれまでの欝憤を晴らすみたいな気持ちで、らしさを放棄していってしまうのは、どうでようか。お互いに行きすぎを改めないと、あまりいい雰囲気がなくなってしまいます。

これは昔々のことになります。

まだ、男女の性の差がはっきりとしていた時代・・・お互いに、その差を最大限に発揮して生きようとしていた頃のことです。

恋する男と女が出会う約束をした時など、女は大変気を使って出かけていきました。約束の場へ向かう道すがら、女は小梅の花びらを口に含んで行きました。もちろん、理由があります。それは口臭を避けるための気遣いでした。そんな現実的な必要から考えられた知恵なのでしょうが、それにしてもこのような気遣いをして、恋する人と会おうとする女性の姿に心惹かれます。

時代が進化して、何でも揃ってしまう便利な時代になってしまったことで、大変暮らしやすくはなりましたが、その分人は不自由を、知恵で克服しようというような努力を、失ってきてしまったのでしょうか。

工夫する時代。

それが、それぞれの思いつきや、気遣いを生む機会になるのではありませんか。特別、そんな努力をしなくても、現代では、お金を出しさえすれば、すべて用意されていますが、その分知恵はしぼんでいくようです。

それともう一つ、古代と違って現代人が失いつつあることと言えば、恥じらいという感覚でしょうか。それが希薄になってしまってから、すっかり世の中の雰囲気が変わってしまいました。電車の中で化粧をしたり、足を広げて座ったり、更にはものを食べたりしている人を見かけることがあります。これが女性なのですから、言葉を失ってしまいます。

女性が人に会う時の心得として、多多良女を口に含んで出会った頃の、気遣いの仕方や、それがさり気なく発揮されていた風習が、梅の季節になると、つい思い出されてしまうのです。お会いした時に、こちらが予想もしていないようなところに、さり気なく気を使っているような女性だったりすると、本当に嬉しくなってしまいます。もう、古代の女性のような、心優しい気遣いのある女性に出会うことは、大変難しい時代になってしまったのでしょうか☆