楽しむ世界 Faile(18)「ひとくち古代史考」(穢れ)

最近はほとんどこんな言葉を聞くことも、口にすることもなくなりましたが、かつては盛んに使われていて、それが差別のきっかけとなってしまったことがありました。

それはほとんど原点とは、かけ離れたところからおかしな方向へいってしまったもののようです。

その原点を辿っていくと、それは日本の誕生とも深くかかわった話になりますが、実は神々の世界に大変関係があるんです。 彼らが絶対に許せないのは、やる気の失せた者ということです。その典型的な存在は、何といっても死者でしょう。

神はあくまでも活力に富んだ存在を大事にします。あの祭りの賑やかさ、神輿を担ぐ活気ある姿は、その象徴でもあり、もっとも喜ばしい姿なんです。

来世に君臨する仏様は、優しい存在で、慈悲ということを持ち味にしていますが、これに対して現世に君臨する神様は、あくまでも活力を持ち味にしているのです。従って神様は、活力の基である「気」というものを大事にする存在なんです。

とにかく神に対しては、決して弱いことをいってはなりません。神社で参拝する時も、「お願い」などとよわよわしいことをいっても、決してそれに応えてはくれないでしょう。

神前結婚でも新夫婦は、「わたしたちは来夫婦仲良く家庭を築きます」というように、誓詞を読むでしょう。つまり誓わなくてはいけないのです。それと同じように、神様に願掛けをする場合でも、「私はこういう気持ちであることに挑戦しますので、後押しして下さい。もし、それが叶わないのであれば、もうあなたを信仰することは止めるぞ」と、いつ神罰が下るかもしれない覚悟で挑戦的に言って祈願する・・・つまりこちらの活力をぶっつけることが大歓迎なんです。神はそういう活力に満ちた者が大好きなんです。しかし「お願い。助け」というような、はじめから負けているような、弱々しい者は大嫌いで、とてもその願いなには応えてくれません。とにかく神に挑んでくるような勢いのある者が大好きなんです。

この「気」に関しては、ざっと書いただけでも、「元気」「病気」「弱気」「強気」等々、「気」という言葉を使った例が多いのは、日本が神と共に歴史を刻んできたことと、大いに関係があると思います。

つまりそのお付き合いの深い神が、最も大事にしていることが「気」というもので、それのないものは、徹底的に嫌うんです。その典型的な姿といえば、まったく活力の失われた死者ということになります。当然のことですが、死者が美しいとは言えないでしょう。

活力の存在である神は、そういった気が涸れた状態を忌避しました。「気涸(きが)れ」それがやがて「けがれ」「汚いもの」「穢れ」と変化していったんです。

それが次第に飛んでもない方向へ広がっていってしまって、さまざまな差別を産んでしまったのですが、本来は神の言う活力を失ったものに対するものであったという訳です。神前で「穢れ」を払うということも、結局はその人のやる気を失わせてしまうような、よくない気を払ってしまうということだと思います。

これだったら、誰でも納得できるし、「気涸(きが)れ」をしないように心がけていくように努力できるのではありませんか☆