読む世界 Faile 2 「ひらきましょう」

わたしは映像界から、活字の世界である出版界へ転進したこともあって、活字に対する思いは格別なものがありました。

題材も古代という古い時代から採りましたので、どうしても活字が表立ってくるようになってしまいました。難しい漢字の名前や、地名、描写、事象が出てくることが多い所為もあるのですが、いささか時代の空気・・・つまりそれまでの時代とは違った、転換期であった80年代のことですから、とにかく軽いものでなくては当たらないと言われていた時代です。それなのに、そういった空気とはまるで違ったものを書くことにしたわけです。

大体、ページをめくった時、ぱっと目に入ってくる印象ですが、活字がほどよく散りばめられていると、実に心地よいのです。おかしな奴だと笑わないで下さい。これは偽りのない正直な感想なのですから。そんなわけで、わたしは、活字の世界での仕事を、活字の多い古代小説に決めてしまったのでした。

現代のAV、IT文化とは異質の、紙の文化の中で育ってきたのですから、どうしても活字とは縁が切れなかったのですが、もちろん新しい時代にも順応しなければと、かなり努力をしていました。しかしどうしても、若いときに身につけたものは、脱ぎ捨てられなかったのでした。日常生活においても、基本的にどうしても出版とか活字への愛着が抜けません。いくらラジオ、テレビでニュースを見たり聴いたりしても、それだけで満足し切れないで、新聞を読んでしまうのもそのためでした。

しかし小説を書き出した頃、若い読者がついてきてくれたことは知っていたので、イラストも若向きであるように工夫したりしましたが、どうしても活字思考ということだけは、変更することはできませんでした。

この頃の読者は、ほとんどビジュアルなものに馴染んで育ってきましたから、本来活字とはあまり馴染みがないのです

が、わたしの書く古代の小説は、嫌でも活字が多くなってしまうのです。

そこで編集者は工夫して、活字の横にカタカナのルビを振って、読みやすくしたわけです。ところが印刷が上がってみてみると、とにかく活字の横にいちいちカタカナのルビがふってあるので、うるさくて、暑苦しいという印象になってしまったのです。

(何とかならないかな)

ぼやきながらも、読者が若いということもあって、少しでも読みやすくする工夫もしなくてはなりません。

いつもそんなことを考えながら書きつづけていました。

そんなある日のことでした。

(いっそのこと、ひらきましょう)

という提案がありました。

漢字のところを、全部平仮名にしてしまえば、わたしの悩みは解消してしまうと言うのです。しかし漢字には、それなりに意味の篭ったものが多いのです。その漢字をはずしてしまうと、ルビもなくなり、すっきりとしてうるさくはなくなるのですが、どうも軽々しくなってしまって馴染めないのです。

編集にも、いっそのことひらいてしまおうという者と、漢字の意味論を唱えて反対するものとがいて、暫くは決着がつきませんでした。

もうこの頃には、ほとんど漢字のない、つまり平仮名ばかりにした上に、センテンスが短くてさっと読めてしまうという、じっくり読むよりも、あっという間に読んでしまえる本を書いている作家があって、かなりの人気を集めている人もありましたが、わたしはずっと悩みつづけました。

若い読者に向けた作品だとは言っても、あまりにも軽々しい小説を書くつもりがなかったことによるものです。それにもともと古代という時代を題材にして書く以上、そこに登場してくる人物の名、役職、事件などの表現は、その時代にあった表現でなくては、まったく意味が通じなくなってしまいます。これだけは変更不能なのです。

恐らくそうした基本的な問題は、解消しないままですから、読者を若い人から大人に変えてしまえばいいのかといえば、とてもそんな滅茶苦茶なことはできません。読者が混乱して、これまでついてきてくれた人まで去っていってしまうことになるでしょう。それでも、もし思い切って大人向けにしてしまったとしても、時間がたてば若かった人たちも、かなり高齢になってしまいます。読者のほとんどの人は、みなビジュアルに表現されることに馴染んで成長してきた人ばかりになってしまいます。彼らにとって、活字は鬱陶しいだけの存在になってしまいます。

昨今は、読みやすくという努力が、新聞でも多くなってきています。しかし活字がなくなってしまうことはないでしょう。活字をはずして(ひらいて)しまうと、意味がまったく判らないことになってしまいます。やはり日本は、活字文化が根底にあるのだということを、改めて考える今日この頃です☆

「宇宙皇子」(地上編)の写真